三題噺を毎日投稿 3rd Season

霜月かつろう

炊飯器・マニキュア・カーテン

 コロン。


 乾いた音が住み慣れてしまったワンルームに響き渡る。家を慌てて出ようとして棚にカバンが当たったと思ったらその音が耳に入ってきて、たったそれだけのことなのに何か張り詰めたものが切れてしまったみたいにその場に立ち尽くした。


 音がしたところに視線を落とす。棚に置いてあったマニキュアがフローリングに転がっている。なぜだか蓋が閉まりきっていなかったので中身が床にゆっくりと広がっていく。


 すぐに拾わなきゃとか、除光液どこだっけとか、思考ばかりがめぐっているのだけれど、それに合わせて身体が動いてはくれない。ずっと広がり続けるマニキュアの青藍色をただ眺めているだけだ。急がないと遅刻してしまうというのにも関わらず動けない自分を認識して。もう駄目なのだとそうしてようやっと自覚した。



 出勤して無断で遅刻したことをくどくどと注意された時間もどこか上の空で、なにを言われても心に響かなかった。毎日のようにそうなることを怯えながら生活していたのが嘘みたいだった。だからと言って心が晴れやかなわけではないのだけれど、心の重さは軽くなったような気がしている。だからだろうかオフィスが入ったビルから見る外の景色が少しだけ明るく見える。


「どうしたの。今日はご機嫌じゃん。手は止まってるけど」


 同僚がそう声を掛けてくるのは珍しいことではない。手が遅く、仕事が詰まり気味なことが多いことを心配してくれている。もしかしたら自分の仕事に影響することを恐れて先手を打っているだけなのかもしれないが、それでも気にかけてくれることはうれしく思っていた。


「そう見える?」


 短くそう返事をしたことに対して同僚は驚きを隠せないようだ。きっといつもはろくに返事もしないからだ。


「あっ。分かったそのマニキュアだ。いい色だね」


 目ざとくそれを見つけてくるあたり気配りもできて周りからの評価も高いわけだ。それが出来ないだけで仕事ができないレッテルを貼られてしまった自分と比べてやっぱりと腑に落ちた感覚だけが残る。


「そうなんだ。ちょっと訳あって使わなくちゃいけなくて。変かな」

「そんなことないよ。似合ってる。でも、その手を止めてたらもったいないからさくっと仕事終わらせちゃお」


 結局は仕事を促しにきただけなのかもしれない。ダメだな。そうやってすぐに卑屈に考えてしまう。


「あっ。そうだ。たまには帰りご飯でも食べて帰ろうよ」


 気を使わせてしまっているのか、本心で誘ってくれているのか判断できないけど。家で炊けているであろうごはんのことを思い出す。


「ごめん。炊飯器セットしてきちゃったから」

「そっか。じゃ、また今度ね」


 その短い会話にどのような意味が込められているのか。同僚も単なる言い訳にしか聞こえなかっただろう。炊いてしまったお米は冷凍しておけばいいだけ。そう詰め寄られたらどうしようかと思っていた。いや、実際そうすればいいのではないのか。せっかく声を掛けてくれたのを無下にしていいのか。


「あっ。でもお米は冷凍すればいいだけだから。別に今日でも……」


 振り向く同僚に言葉が一瞬詰まる。でも、どうにでもなれという気持ちがわいてくる。


「ご飯いけるかも」


 迷った末に言葉を出せたのは、きっともう駄目なことを自覚できたからだ。この会社にいる時間はながくない。そう思えたら割となにをしてみてもいいのかもしれないとすら思えてきたのだ。


「よしっ。じゃあ仕事さっさと終わらせないとね」


 コクリと頷いてパソコンに向かう。数字との戦いは得意ではないけれどこれまで毎日積み上げてきた作業ではある。コツコツと積み上げるのだけは出来る。そうキーボードに手を置いた。


 自分の爪に塗られている青藍色のマニキュアを見て何かがおかしいと外に目をやる。相変わらず窓から見える空は透き通るようにきれいだ。ところどころ浮かんでいる雲もその青さにアクセントを加えている。


 あれ?


 ここからの景観はビルばっかりで、せっかくの高いところなのに花火大会の花火も見れないと先月同僚が嘆いたばかりじゃなかったか。そもそも普段はカーテンに覆われていてその景色なんて見れなかったはずじゃあ。


 自分の爪に視線を戻す。



 気が付くとフローリングに広がっていく青藍色のマニキュアを茫然と見下ろしながら立ち尽くしていた。まるで夢を見ていたみたいだ。スマートフォンを取り出して時間を確認する。遅刻はまだしそうにないがぎりぎりであることには間違いない。このまま出勤すれば小言を言われることもないはずだ。でもそれは眼下に転がっている光景を放っておくことでもある。


 自分の爪を見る。


 手入れもされていない爪がそこにあってさっきまでのことがまるでなかったことのように思える。ゆっくりとうずくまると、マニュキアを拾っておもむろに爪に塗り始めた。


 さっきまでのことが夢だったとしても、同じように塗れば同じようなことになる気がして遅刻するのも気にすることなく塗り続ける。それから炊飯器をセットしないと。そしたらきっといいことがある。そんな気がしながら、マニュキアを塗る前にお米を研げばよかったと少しだけ後悔する。


 その時、ふわりと部屋のカーテンが膨らんだ。窓は閉まっているはずなのにだ。その膨らんだ先に見えた青空に、先ほどみた景色を重ねて胸がちょっと跳ねた気がした。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る