第54話「茜の失恋」

「ねえあかね、喧嘩でもした?」


 そう話しかけてきたのは飲み会に誘い、間接的に達也たつやと付き合うきっかけを作った友達だった。


「喧嘩は、してないかな……」

「ならなんであいつあんな機嫌悪いの? 彼女なんだしなにがあったか知ってるでしょ?」


 機嫌悪い?

 そう聞いて達也が今どういう感じなのか気になったが私にそれを気にする資格はもうないと慌てて頭を振り思考の片隅に追いやった。


「ごめん……、もう彼女じゃないんだ」


 大学では泣かないでいようと思っていたのに、恋人じゃないと否定した瞬間に涙があふれてくる。

 自分から振ったはずなのに。

 振ればもう気にならなくなると思ったのに、どうしてこんなに苦しいんだろう。


「え、泣いてるの? なにがあったの?」

「泣いてないよ、大丈夫」

「ダメな顔で大丈夫とか言われても説得力ないんだけど」


 精いっぱいの笑顔で応えたはずなのに、どうしても誤魔化せないらしい。


「ほら、これで拭きなよ」そう言われてハンカチを渡された。

 ただハンカチじゃ涙は止められない。


「なにがあったの?って聞きたいけど、ここじゃ言いづらいか」

「そうだね……」


 教室の中は人の行き来が激しく、誰に聞かれてるかもわからない。

 それに下手なこと口走って、誤った情報が達也に伝わるのも嫌だった。


「今日……、はごめんバイトだ。明日の夕方ごろなら空いてるけど、茜は」

「多分大丈夫」

「ならまた明日ね」


 その日どうしても自分を抑えることができず、なにか一言でも達也と話せたらと大学中を探し回ったが、後ろ姿は見ても本人が見つからない。

 まるで避けられているかのように、私の視界から消えてしまった。

 まあ振られた元カノの顔なんか見たくないよね……。


 ◇


「待った?」


 駅前の待ち合わせの定番である時計の前に私が立っていると、大学に来る時より少しだけおしゃれをした友人が駆け寄ってくる。


「私も今来たところ、行こ」

「よかった、茜がナンパとかされないか心配だったんだよね」


 まあ何人か声を掛けてきた人はいたけど、私の顔を見るとすぐ「人違いでした」と言って去っていった。

 まあこんな目の周り腫らして、亡霊みたいな顔してたら逃げたくもなるよね。


「されなかったよ」

「なら行こう」


 そういって連れていかれたのは、達也と出会った居酒屋だった。


「え、ここって……」

「ごめんどこかいい場所ないかなって探したんだけど、個室があってそこまで値が張らないってなるとここしかなかったんだよね」

「わかった、探してくれてありがとう」


 正直色々なことがよみがえってきそうで、こんなところで飲みたくはなかったけど、友達にまでわがままは言えない。

「ここじゃないところがいい」なんて言ったらこの友達にすら見切られてしまうだろう。


 友達が全部店員と話してくれたようで、私はただ黙って友達について行く。

 途中ふと覗いた座敷席を見ると、記憶がフラッシュバックしてきた。

 ああそうか、ここで初めて声かけられてのか。

 ここで出会ってなければ今こんな悲しいこともないのかな?

 幸せになれたのかな?

 溢れそうな涙を何とか我慢すると、小部屋のような場所に通された。


「ねえ何なら食べれそう?」

「冷ややっことかでいいかな」


 さっきから頭の中で達也との思い出や彼の声が鬱陶うっとうしいほど木霊していた。

 一つ、また一つと頭の中を駆け巡るたび、どんどんと体力や精神を削っていく。


「昨日からなにも食べてないでしょ? ちょっとはましなもの食べなよ」

「元気になったら食べるから大丈夫」

「食べないと元気になれないよ」

「ならなにか食べられそうなものがないか見てみるよ」


 そう言いながらお冷に口をつけた時、体の奥底から違和感の塊が湧き出してきた。


「ごめんトイレ……」

「ちょっ大――」


 彼女の呼びかけを無視して一目散にトイレに駆け込む。

 なんとか間に合ったと便器の中を覗き込むと、直後に私の口から出た赤さび色の液体で満たされていた。

 それを見てまたキリキリと痛み出す胃を抑えながらなんとかすべて体から絞り出すと、今度は熱された銅の色をした液体が上がってくる感覚があった。

 ああそうか、これが罰なのかな。

 わがままで彼氏を振って、のうのうと生きてる私への戒めなのかもしれない。


「ねえ茜、平気?」

「大丈夫」


 気を使ってくれたのか、よく見えなかったのかわからないが、真っ赤な液体を黙って流すと、彼女は優しく言った。


「口すすごうか、気持ち悪いでしょ」


 なんで私だけこんなに優しくしてもらえてるんだろう。

 そう思うとまた涙が止まらなくなってしまった。


「振らなきゃよかった、わがまま言わなければまだ楽しく付き合えていたのに」

「そんなことないって、ずっと無理してたんでしょ。ろくな彼氏じゃないって」

「けどこんな私にも優しくしてくれて、好きって言ってくれて……」


 洗面台の前で泣きじゃくっていると、誰かが隣を使い始めた。

 けど、隣に誰かいるからって涙をコントロールできるほど強くはなかった。


「ねえ茜、もう泣くのやめようよ」

「けどあんなひどいことして……、どうしたらいいのかわからないし」

「大丈夫振ったのは間違ってないって」


 間違ってないならどうして達也は私を避けるんだろう。

 それにどうして心臓を直接握りつぶされるような痛みを味わっているんだろう。


「でも……。ひどいことしちゃった……」

「突然振るなんてみんなやってるって、内心我慢してるんだから爆発してもしょうがないよ」


 もしかしたら友達の言うことが正しいのかもしれない。

 何回も振れば気にならなくなるのかもしれない。

 それに、別れたと伝わったときから、達也を擁護するいろんなLINEが届いてきた。


『達也君自分が言うこと聞けなかったから振られたとか言ってたけど、茜のわがままのせいでしょ、謝んなよ』

『桧山くん、泣いてたけどどんな理不尽なこと言ったの? かわいそうだよ』


「けどみんなの話聞くとあんまりひどくないのかなって思って……」

「別れた彼氏の惚気なんかやめよう、そんなことより飲んで忘れよう。落ち着いたら合コンとかしようよ」

「忘れられないよ……。大好きだもん……」

「大丈夫、すぐほかの好きな人見つかるかな」


 友達に慰められながらなんとか冷静さを取り戻しつつあると、突然水の流れる音が聞こえた。

 やばい、邪魔になるし、早くどかなきゃ。

 頭ではそうわかってても、体が動かない。

 どうにかしてようとしていると、ふと隣の人と目が合った。

 この人達也のバイト先で見た人に似てるな。

 もし合ってたらバイトでの様子とか聞かせてくれないかな。


「あの……」


 なんとか絞り出すように話しかけると、氷よりも冷たい返事が返ってきた。


「なんですか?」

「ごめんなさい、人違いでした」

「そうですか」


 もし合っててもとてもこの人に達也の様子なんか聞けない。

 それにもともと他人だし、すごく失礼なことを使用としてた気がする。


 ぼんやりとトイレから出ていく彼女を眺めていると、化粧品独特の香りと胃から上がってくる酸っぱい香りがさっきとは違う吐き気を生み出してきた。

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