第33話 愛
「教室に戻るだけなのに、なんでこんなことになるんだろう…」
保健室を出て教室に向かう虎千代は、一歩進む度に上級生の襲撃を受けていた。
どの攻撃も虎千代とっては蝿が止まった程度のものであったが、ここまで露骨に敵意を向けられるのは心が痛む。
とぼとぼと歩く虎千代の背に、コツンと何かが当たる。
それと同時に、廊下を吹き飛ばす程の爆発が起こり、爆風に吹き飛ばされる虎千代は、瓦礫と共に壁にぶち当たる。
「危ないなぁ…怪我しちゃうところだったよ…」
瓦礫の隙間から這い出て、そう溜息を漏らす。
「クソっ!!なんであれで生きているんだ!?象も消し飛ぶ爆薬だぞ!?」
そんな虎千代の姿に冗談を漏らす爆発を起こした上級生に、虎千代は笑って返す。
「まさか、その程度で象が消し飛ぶわけないですよ。」
この時、虎千代はその場の全員が異物を見る目で自分を見ていることに気付く。
「化け物…」
「経津主は人じゃない…」
そんな声が聞こえ、少しブルーな気分になる虎千代。
「経津主寅華…」
そんなブルーな虎千代の耳に、そんな言葉が聞こえる。
「あんな大魔王と一緒にするな!!」
あの母と同等の扱いを受けるのは、虎千代にとって最大の侮辱であり、流石にそれは許容出来ない。
そんな一喝に、蜘蛛の子を散らすよう皆が逃げていく。
そんな光景を見ながら、虎千代は床を殴った。
「ちくしょう…母さんのせいでいっつもこうだ!!」
経津主の名を聞いただけで人が逃げて行くのに、ましてやその経津主の中でも最も名の知られた史上最強の生物たる母、経津主寅華の息子と知られた時、周りに誰もいなくなる。
何度経験しても、この孤独感は耐えられない。
そんな床を殴り続ける虎千代の肩に、優しい手が置かれた。
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居酒屋巡の店内には、店主の巡と従業員兼用心棒の男の店員二人と、寅華と潤三の夫婦だけが残っていた。
店主巡は、開店間もない頃からの常連客である経津主寅華に対し、悪い感情は無い。料金を踏み倒そうと画策する客や、巡自慢の料理にケチをつける客ばかりの中で、金払いもよく、どんな料理も美味しそうに平らげる。
そして何より、自身の命以上の大恩がある。
故に、世に恐れられる経津主寅華という人物が恐ろしいと思ったことはなく、滅茶苦茶強く、気前のいい姉貴分という認識だった。
そんな姉貴分が店に来る度に、楽しそうに話すのは決まって家族の話。息子と娘の自慢話と、夫との惚気話しか話さなかった。
そんな姉貴分が、恐らく夫婦喧嘩をしたのだと、巡は察した。
口を挟むのは野暮ってもんだ…
そう思い、黙って酒を注ぐ。
そもそも、口を挟む勇気も無いし、何より…
「既に惚気てんじゃないか…」
歯の浮くような潤三の言葉と、そんな言葉に頬をほんのり朱くしながらぷいっ、と顔を背ける寅華。
そんな二人に、必要なのは酒だけだと巡はカウンターにグラスと特大ジョッキを置く。
「全く…当てられっちまうよ。」
Tシャツの胸元を摘み、風を送る様にパタパタとしながら、顔を手で扇ぎ冗談っぽく言う巡は、用心棒の男に近づく。
「羨ましいねぇ…私も、あんな旦那が欲しいもんさ。」
ケラケラと笑う巡の姿に、用心棒の男は頬を紅潮させながら顔を背けた。
「相変わらず喋んないねぇ。まあ、別にいいけどさ。」
クスっと乙女の様な微笑みで巡はそう言ってカウンターに戻ろうとする。
「愛しています。初めて合ったあの時から…貴女の為に生きる。それしか望むものがありません。」
「…ふぇ?」
突如告げられた愛の告白に、巡は戸惑いながら赤い顔で振り向いた。
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11年前、虎千代の授乳期を終えた経津主寅華を某国の特殊機関のエージェントが襲撃する事件があった。
その機関は、対経津主の為に設立され、そこに所属するエージェントたちは、試験官の中で誕生し、生まれた時より選別され、優秀な遺伝子を引き継いだ者のみがあらゆる武術と戦闘訓練、最新兵器の使用を叩き込まれ、感情の無い最強の戦士として育てられる。
そんな機関から放たれたエージェントたちが、数人の経津主を始末した。
それが経津主と某国機関との開戦の火蓋を切る予定だった。
しかし、予定は容易に覆された。
そこにあったのは戦いではなかった。
たった一人に、経津主を超える為に育成されたエージェントたちがただ一方的に消されいく現実。
経津主一族の当主にして、史上最強の生物。
経津主寅華ただ一人に、その機関は壊滅させられ、彼女だけは人の及ぶ範囲では無いと知らしめた。
そんな某国のエージェントの中で一人生き残った男がいた。
経津主を殺す為に育てられた同胞たちが経津主によって血霧となって消える姿を見て、消された筈の感情が再生し、逃げ出した者。
必死に逃げ、逃れ逃れ辿り着いたスラム。経津主の本拠地がある地域で貧民区画といわれる区間であった。
飲まず食わずで数日、逃げに逃げた果てがここか…
諦めよりも、そういう
戦う以外何も知らない自分が逃げ出した。
その時点で終わっていたのだと、頭では理解しており、衰弱した身体が死に向かうことに抵抗しなかった。
力尽きるまで…
ふらふらと歩きながら、襲って来る輩を沈めていた。
「兄さん、腹減ってんの?」
遂に倒れた男に、二十歳前後の女が何かを差し出す。
男には、それが何なのか分からなかった。
機関では効率良く必要な栄養を接種する薬品と、満腹感を得る薬だけで生きてきた。
その男には、食事どころか、味覚という概念が無かった。
後になって分かる。
それが彼女の握ったおにぎりと彼女が作った惣菜だったと。
何も分からずに男はそれを頬張った。
一口一口を噛み締める男、味覚の存在しなかった男は、ただ空腹が満たされる感覚とその幸福感に、涙を流していた。
「そんなに旨い?ゆっくり食べなよ。まだあるからさ。」
そんな男を見て、嬉しそうに笑う女。
戦う以外に何も知らなかった男は、彼女の笑顔とその味が旨いのだと、戦い以外に知った初めての世界だった。
「兄さん、宛てが無いんなら手伝ってよ。」
はにかんで言う女。
男は、無意識に差し伸べられた手をとった。
その手の柔らかさと、暖かさに戸惑う。
「ありがと…私は巡。よろしく頼むよ。」
バシッと背中を叩かれる。
痛くは無いどころか心地よい。
太陽の様に明るい彼女の笑顔と優しさに、男は呆然としながら頷く。
それが恋であると男が知るのは、少し後となる。
こうして、対経津主の為に造られたエージェントの生き残り、β794は、愛と間違った味覚を知るのであった。
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