記憶の色

リーア

老婆の色

カランカラン

ドアが開き、一人の老婆が姿を表す。


「いらっしゃいませ。お好きな席にどうぞ。」


老婆はカウンターの真ん中の席に座った。

老婆はメニューを少し眺め、注文する。


「ホットコーヒーを一つ。」

「かしこまりました。」


ここは喫茶店の記色きいろ堂。

鼈甲色のライトと仄かに香るロータスの匂いが心を穏やかにする。

店内には、アンティークの柱時計や革張りのソファーが置いてある。

カウンターの正面の棚には、コーヒー豆や紅茶の葉が入った瓶が沢山並んでいる。

僕はサイフォンでコーヒーを淹れる。

温めたカップにコーヒーが注がれると、辺りに香ばしい香りが漂う。

ミルクと角砂糖とスプーンを添え、老婆の方を向く。


「お待たせいたしました。」


コトリと置かれたコーヒーは、舞踏会のドレスのように揺れる。

老婆は感謝の言葉を述べると、取っ手を左手で抑え、ミルクと角砂糖を入れて混ぜた。

褐色の貴婦人はあっという間に、カウナオアビーチの砂浜になった。

老婆はコーヒーを一口飲むと、マスターに尋ねた。


「記憶の色を作っていただける?」

「かしこまりました。その記憶についてお聞かせください。」


老婆は愛情のこもった声で話し始めた。


私は二十歳でお見合い結婚をした。

当時はお見合い結婚が主流だったし、私も納得していた。

五歳年上の旦那様は私を愛してくれたし、私も旦那様を愛していた。

ある日ドライブに行かないか、と誘われた。

その日はお出かけ日和で、私達はドライブに行った。

ドライブに誘われたのは初めてで、とても嬉しかった。

ドライブの行き先は誰もいない海。

見渡す限りの海が広がっていた。

海面は太陽の光が反射して、綺麗だった。

どんな宝石も霞んでしまうほどに。

それから毎年その海に行った。

しかしあの日見た鮮やかなブルーは、二度と見ることは叶わなかった。


「あの日の海の色を作ってほしいの。」

「かしこまりました。」


僕は棚から十二色のインクセットを取り出した。

いくつか青系の色見本を用意し、老婆に見せる。


「この中で一番近い色はどれですか?」

「これかしら。もう少し暗い感じね。」


勿忘草色に薄めた黒を数滴垂らし、撹拌する。

真っ白い紙に調整したインクを一滴垂らす。


「このような色でしょうか?」

「この色よ!また見ることができて嬉しいわ。去年亡くなった旦那様に早く見せたいわ。」


露草色とみ空色の中間くらいの色。

僕はインクを瓶に詰め、緩衝材のドレスを着せた。

丁寧に箱詰めし、老婆に渡す。

老婆は涙ぐみ、お会計を済ませた。

老婆は去り際に、僕に尋ねた。


「このいい匂いはどこで手に入るのかしら?」

「ここの近くにあるアロマショップです。弟の蓮がやっているお店で、ロータスの匂いなんです。」


僕はアロマショップの住所と、電話番号が書かれたカードを渡した。


「あなたお名前は?」

「中村あおいです。紺碧の碧の字です。」


老婆は満足そうな顔で礼を言い、店を後にした。


「またのご来店をお待ちしています。」


今日も新しい色が生まれた。

僕は余ったインクをノートに垂らし、色の情報を書く。

もしこの色に名前を付けるなら、『100万ドルの海』と名付けるだろう。

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