拳王伝 KENOHDEN
大隅 スミヲ
episode.1 空手家
第1話 定食屋にて
駅前にある小さな食堂で、真壁は遅い夕食を済ませていた。
焼いた塩サバとあさりの味噌汁、大根の漬物がセットになっている日替わり定食。そこに瓶ビールを注文し、サバを突っつきながら、店内にある古びたテレビから流れる野球中継を眺めていた。
特にひいきの球団があるというわけではなかった。テレビで流れているから見ている。ただそれだけだった。
店内は、カウンターに4席とテーブルが2席という広さで、真壁はカウンター席に腰をおろして食事を取っていた。
店のガラス戸が開いた。外の冷たい空気が店内へと入ってくる。
真壁から席をふたつほど空けたところに座っていたニッカボッカにジャンパー姿の中年男性は、店に出入りがあるたびに舌打ちをしている。ちょうど、その席はガラス戸が開くたびに冷たい風が背中に当たるのだ。
新しく入ってきた客は、モスグリーンのMA-1が良く似合う短髪の男だった。
「いらっしゃい」
厨房にいた店主が入ってきた客に声をかける。
誰も入ってきた客には注意を払ってはいなかった。
ちょうどその時、テレビの野球中継でバッターが満塁ホームランを打ったためだ。
その一発でスコアは逆転していた。
男が腰を下ろしたのは、真壁の隣の席だった。
ちょうどテレビとは反対側の席であるため、真壁はそちらには背を向けていたが、気配で男が腰をおろしたということはわかった。
「強いんだってな、あんた」
背後で男の声がした。
痰が絡んだような、かすれた低い声だった。
真壁は自分が話しかけられているということに気づかなかった。
気づいたのは、男が真壁の肩に手を伸ばそうとしたからだった。
男の手が真壁の肩に触れるよりも先に、真壁は体を男の方へと向けていた。
声を掛けられた時点で、自分の方が不利な立場にいることはわかっていた。
位置的にも背後を取られているし、何よりも男は真壁のことを知っているような口ぶりで話しかけてきていた。
振り返った真壁は、男の顔をじっと見た。
しかし、記憶の中に男の顔は存在しなかった。
こちらは相手のことを何も知らないのに、相手はこちらのことを知っている。情報があるとないとでは、大きな差が出てくる。
大きく分厚い手だった。
指の一本一本が太く、全体的に丸みを帯びた手だ。片手でリンゴを軽く握りつぶせるぐらいの握力はあるだろうと、安易に想像できた。
「誰から聞いたんだい、その話」
「うーん、誰だっけなあ。覚えてないな。別に誰だっていいじゃないか。あんたが強いってことには変わりないだろ」
とぼけた口調で男はいうと、カウンターから空のグラスをひょいと取りあげて、テーブルの上に置いてあった真壁の瓶から自分のグラスへとビールを注いだ。
「俺は岸田っていうんだ。空手を使う」
奇妙な自己紹介だった。
岸田はブルドックのような不細工な顔に笑みを浮かべると、グラスの中身を口の中へと放り込むようにしてビールを飲み干した。
「これで立場は対等だ。あんたは俺のことを知った。俺もあんたを知っている。それにふたりともアルコールが入っている」
あまりにも一方的な岸田の言い分に、真壁は苦笑いを浮かべるしかなかった。
「俺のことをどこまで知っているんだ」
「喧嘩が強いってことぐらいだよ、真壁さん」
「今日じゃなきゃダメなのか」
面倒くさそうな口調で真壁がいう。
「捜しまわって、ようやく見つけたんだぜ。せっかく見つけたのに、逃がすわけにはいかねえよ」
岸田は笑みを浮かべながらいうと、再びビール瓶へと手を伸ばした。
少しアルコールが入ったぐらいでは、動きは変わらなかった。
その場にいた店主や他の客たちは、誰ひとり、何が起きているのかはわからなかっただろう。
ビール瓶がコンクリートの床に落ちて割れていた。
その音で、何かが起きているということを知ったはずだ。
「店の迷惑になる。出よう」
真壁は岸田にそういうと、カウンターに五千円札を一枚置いて、店を出た。
店内に残された岸田は、額に青筋を立てて、顔を真っ赤に染めていた。
岸田の手に握られていたのは、ビール瓶の先っぽだった。
残りの部分は、コンクリートの床の上で割れている。
パフォーマンスのひとつにビール瓶切りというものがある。
空手家が手刀でビール瓶の先端を切り落とすかのように割るというものだ。
真壁はそのビール瓶切りをやってみせたのだ。
しかも、ビール瓶に手を伸ばした岸田が気づかないほどのスピードで。
これは岸田にとって屈辱でしかなかった。
岸田は握っていたビール瓶の先端をテーブルに叩きつけて割ると、目を血走らせながら真壁のあとを追って、店を出た。
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