散る葉、残る葉。

燈外町 猶

散る葉、残る葉。

 八月の最後の週になって、蝉の声や、風の温度が変わった気がする。一昨日、バケツをひっくり返したように降り注ぎ颯爽と消えたゲリラ豪雨が、夏を連れ去ってしまったみたいだ。

 そんな季節の変わり目を肌で感じながら、カフェのテラスから街路樹を眺めていた。そうする以外にすることはなかったし、したいこともなかったし、できることがないように思えた。

 ひらひらと。目前の立派な樹から黄色がかった葉が舞い落ちる。まだ瑞々しい緑の葉が無数になっているというのに。散る葉と残る葉に、どんな違いがあるのだろうか。

 茫漠とそんなことを考えていれば、風が吹いてさらにもう一枚、落ちる。振り落とされていく。

 それからしばらく時間が空いて、脈絡もなく再び落ちてきたと思ったら、それは蝶だった。

 大きな翅をゆったりとはためかし、樹木を撫でるように舞い降りてくる。

『あ、カラスアゲハ』

 ふと、隣で。彼女が大袈裟に喜びながら、手を伸ばした——気がした。

 そしてその瞬間、今まで痛みを覚えないよう必死に殺してきた感覚器官が牙を剥き、彼女が隣にいない事実を徹底的に証明する。

『恵那ちゃんにそっくり。綺麗だねぇ。可愛いねぇ』

 生命に満ちた植物園で、青白い顔の彼女が周囲の何者にも負けない輝きを纏い笑みを浮かべてそう言った。

 虫と似てるって言われてもなぁ。私はなるべく平静を取り繕って答える。本当は可愛いと言われたことが、嬉しくてたまらなかったくせに。

 そんな、悔いばかりの記憶が、脈動のたびに痛みを伴って脳内を、全身を駆け巡る。

『涼しくなったら、また来ようね』

 手に取ったマグカップは温もりに満ちていて、コーヒーの香りも味も好みだ。

 けれど彼女はもういない。

 カフェの店内から聴こえてくるピアノは慎ましく、沁み入るような音色が心地良い。

 けれど彼女はもういない。

 空は青く吹き抜けて、巨大な太陽に照らされた新緑が燦々と輝いている。

 けれど彼女はもういない。

 何気なく交わした約束は、果たされない。

 彼女はもう、いないから。

「こっちは随分、涼しくなったよ」

 早く、早く鈍ってくれと願っていた。何も感じなくなってしまいたかった。

 私を生かすために磨かれてきた感覚器官は、いつの間にか彼女を観測する為と存在意義を変えていた。

 この世界の至る所に、彼女との思い出があって。

 この世界に生きている限り、私の痛覚は何度も何度も滅多刺しにされる。

 こんな壊れた感覚器官で、彼女のいない世界を生き抜く方法が、わからない。

「……そっちはどう? もう涼しい?」

 独り言も二回目となれば、隣の席に座る人が怪訝そうな顔でこちらを見やる。以前ならば感じていたであろう恥や恐縮の意も湧いてこない。

 ポケットからハンカチを取り出して、それに包んでいた二粒のカプセルを口に含み、水で流し込んだ。

 薬を覆うゼラチンが胃液で溶けるまでの間、私は最期に、もう一度考えた。

 散る葉と残る葉に、どんな違いがあるのだろうか。

 彼女と彼女以外の存在に、どんな、違いが——。

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