Episode,Fünfzehn.Verdacht.ver.1.1
──他人の、四肢。
一瞬、聞き間違えたのかと思いました──……いいえ、聞き間違いであって欲しいという方が正しいのかも知れません。
「本当に、他人の四肢なの……?」
「そうだよ。
聞いたことくらいあるだろう? なんて言われたけれど、私はそんな事を聞いたことがありません。そもそも他人の手足を接ぐ事自体、禁忌とされているはずなのです。加えて漂白済みの屍体とは何なのでしょうか?
次々に質問が生まれます。けれどそれらは皆、言葉になる前に消えてしまう。そんな中でも唯一、消えない疑問がありました。ですがそれもいつまで残っていられるか、わかりません。
「ねぇ、トート……この手足は、誰のものなの?」
「…………うん? それはどういう意味だ」
質問が曖昧過ぎたのでしょうか? 彼女は考え込むような仕草のまま此方を見ています。望む答えが欲しいのなら、もう少し直接的な言葉で聞いたほうがいい。それは理解しています。けれどそれは口にすべきではない単語だと、これまでの経験が警鐘を鳴らしているのです。
どう伝えたらいいのか迷っていると「あぁ、そういう事か」と彼女は呟き、不機嫌そうな表情で大きなため息を吐きました。
「──疑われたのはちょっと…………イヤ、結構腹立たしいな?」
どっちなのだろう。怒るに怒り切れていないのでしょうか? なんだか不思議な表情を見せながら、あぁでもないこうでもないと独り言ちています。そして「まぁどうでもいいか!」と言い切った彼女の顔は、心なしかスッキリしていました。
「お前さんの境遇を鑑みればそう思うのも当然だろう。けど安心して良いぞ。その手足は私が買って
そう言って、私の頭に手を乗せ軽く撫でてきます。先程とは異なり、その手の温もりと動きはしっかりと感じることが出来ました。
「間違ってもあのクソ兎みたいな事はしないさ」
明るく笑い「それにこんな細腕で
そう思う頃には、彼女への疑いも恐怖心も無くなっていました。改めて疑ってしまったことを謝ると「別に気にするな」と言って頭を雑に撫でられてしまいました。
……始めの頃こそ、その行為に安心感のようなモノを覚えていたのですが、些か長いような気もします。先程から前髪が鼻のあたりをくすぐったり、まつ毛に触れたりしてむず痒くなってきました。特に鼻のあたりをくすぐるのが絶妙な刺激で、このくしゃみが出そうで出ない、あの微妙な状態が続くのははっきり言って不快です。
その事を伝えようとした瞬間、絶妙なラインを超えました。
「わっ!? でっかいくしゃみだなぁ…………!」
幸いにも鼻水か出たりとか、そういう感覚はありません。しかし意図せぬタイミングで出たくしゃみなので、少しばかり胸のあたりが痛みました。
「あー…………その、ごめんな?」
ほんの少しの間を挟んだ後、彼女は私から視線を逸しつつ
言葉が出ない、というのはこういう事をいうのでしょうか。本来なら怒るような事の筈なのに、不思議と言葉が出てこないのです。
「悪かったって……だからその、真顔は止めてくれよ」
この規模の巣なら、どんな鳥が卵を産むのか──なんて事を考えていたら、彼女がしおらし気な声を漏らしていました。改めて鏡に映る自分を見ると、かなり不機嫌なように見えるのだから不思議です。私自身はそんな事を微塵も感じていないのに、なぜでしょう?
「その、梳かしてやるからさ……ここに座ってくれるか?」
なんだか少し面白いな、と思っていると彼女は手鏡をしまって櫛を手に取りました。そして変わらぬ調子のまま、すぐ側にある椅子へ腰掛けるよう指示してきます。
「どうだ、立てそうか」
「ん……大丈夫……っ?!」
「おおっと、大丈夫か!」
問題なく身体を起こせたものだから、そのまま立てると思ったら全然駄目でした。立ちあがろうとして重心を前にした途端、膝に力が入らなかったのです。転倒する寸前で彼女が支えてくれなければ、私はきっと顔面から床にぶつかっていたことでしょう。
彼女に凭れたかかったまま、お礼を伝えると疲れた声で「気にするな」と返されました。そしてそのまま手術台へと戻され、浅く腰掛けるように座り直します。
「それで、今のは膝に力が入らなかったのか?」
「多分、そう」
すると彼女は真剣な面持ちで私の足に触れ、右膝を伸ばすように指示をしてきました。少し時間はかかってしまいましたが、なんとかまっすぐに伸ばすことは出来ます。
「上出来だ。そしたらその状態から軽く膝を曲げて──そうだ、それくらいでキープ出来るか?」
「……出来る。けど、ちょっとキツイ」
「ちょいと足首のあたりに体重をかけるから、足を伸ばす力を入れ続けてくれるか?」
「わかった」
指示通りに足を伸ばそうとしたけれど、彼女が体重をかけ始めるとゆっくりゆっくり膝が折れていってしまった。見た感じ、彼女は普通の人間なのでそこまで強い力を込められているわけではないと思う。
……その筈なのにどうして押し負けてしまうのだろう? ゆっくりと、じんわりと力が押し戻されていくような感じがします。抵抗しているつもりなのに、全然出来ていません。
「ん……なるほどな。そしたら次は膝を曲げて伸ばしてみてくれ」
「こう?」
「そうそう、そんな感じで後はそのまま伸ばし続けてくれ」
負荷がなければ、問題なく動かせます。けれどやっぱり重く感じてしまうのは、これが他人の四肢だからでしょうか? それに足を伸ばし続けているだけなのに、少し経つと小刻みに震えてきてしまいました。時間にして2分も経っていないのに、もう疲れたとでも言うのでしょうか? まだいけるはずだという意思とは裏腹に、小刻みに震えながら足が下がっていきます。
「──……オーケー、もう楽にしていいぞ」
「今のは、なんの検査?」
「
それは各単語の頭文字を取って、通称MMTと呼ばれているのだそうです。精度はそれなりながらも、素手で筋力を測れるので重宝されているのだとか。また肝心の計測結果についてですが、現在の私はMMT3寄りのMMT2というところだそうです。
「それって、悪いの?」
「ちょいと心許ない感じだな……けどまぁ接いだばかりだし、まだ馴染みきってないのかもしれん。暫くは様子見といこう」
彼女は私を軽く抱えあげ、先程指定した椅子へと座らせてくれました。
その時に思ったのですが、彼女はかなりの力持ちなのでしょうか? 私達のような
「──さて、それじゃあ梳かしていきますかね」
「自分が滅茶苦茶にしたのに?」
「…………だから綺麗に梳かしてやるっての」
この野郎、とでも言いたげな表情のままで彼女は軽く手櫛を入れてきました。数度それを繰り返した後、今度は大胆に櫛を入れてきます。きっと引っかかるのだろうと思っていたのに、彼女の櫛は滑らかに通り抜けていくのでした。自分でやるときは絶対に引っ掛けていたのに、どうして彼女はこんなにも上手く梳かすことが出来るのでしょう。
「……ねぇ、トート。どうやったら、上手く梳かせるの?」
「毛の流れに沿って櫛を入れりゃいいのよ」
「毛の流れ……って、どういうこと?」
「どういうこともねぇさ。単純に感じたまま流せば良いんだよ」
サラッと言い流すと、彼女は鼻歌交じりに櫛を入れ続けていく。自分でやると軋みがちな部分だって全く軋む事は無くて、不思議なほどにスルスルと櫛が通っていく。あまりにも違うので、彼女の櫛にはちょっとした魔法でもかかっているのかと思うくらいでした。
「それにしてもほんっと手触りがいいなぁシオの髪」
「……私の髪、手触りが良いの?」
「おー、凄くいいぞ。よく絹みたいな、なんて言うけどまさにそんな感じでさぁ……なんでこんなにサラサラして艶があるんだ?」
「知らない……けど、よかった。ありがとう」
「んぉ? どういたしまして……?」
彼女はやや困惑した様子を見せながらもその手を止めず、手と櫛を上手く動かしてボサボサになった髪を綺麗に梳かしていきます。
自分でやると面倒臭い事この上ない作業でしかなかったのに、人にやってもらうとなんでかちょっと愉しい気持ちがします。でも、愉しいより嬉しいっていう方が近いような……気持ちいいの方がしっくりくるかも知れません。私の髪を梳かしているトートはなんだか愉しそうに見えますし、もしかして他人の髪を梳かすのは楽しいことなのでしょうか?
「ねぇ、トート」
「んー?」
「私の髪を梳かすの、楽しい?」
「あー……結構楽しいな。なんつーかこう、乱れたモノが整っていくのは見ていて気持ちがいいんだわ」
声音から察するに嘘ではなさそうです。けれど、彼女の発言から考えると私の髪を梳かしていくのが楽しい訳じゃなさそうな気がする。あくまでも乱れた髪を梳かし、整える行為によって得られる結果を楽しんでいるのではなかろうか?
「トートは、スッキリするから、楽しいの?」
「そうかも。けどまぁ、そんなこと真面目に考えた事ないからよくわかんないけどね」
「……もしかして、トートは、結構ガサツ?」
「んー? そうだなぁ、ガサツなのは間違いないよ」
「なら、片付けは嫌い?」
「嫌いじゃないけど面倒くさい」
そうキッパリと言い切った直後に「とは言え、手術器具やなんかは毎回綺麗にして整頓してる」と付け加えてきました。
たしかにこの部屋は綺麗に整頓されているように見えます。床はうっすらと周囲の景色が反射する程には磨かれていますし、いくつかの機器には埃一つ見えません。たしかにこれは見ていて気分が落ち着きます。もしなくとも、彼女と私は近しい感性を持っているのでしょうか。けれど──…………
「──……よく、わからない」
「はぁ? なんの話だ?」
「楽しいという感情……楽しいの延長上にあるのが、好きっていう気持ちなの?」
「まてまてまて、何の話だシオ」
「トート、整頓してスッキリするのが楽しいって言ったけれど、整頓したりするのは面倒くさいとも言った」
「あー……たしかに言ったな」
「面倒くさいのは、みんな嫌がる。他人の髪を梳かすのは、面倒くさいこと?」
「それはケースバイケースだよ、シオ。例えどれ程愛しい奴の為だろうと、その時の自分に余裕がない時なんかは煩わしいと思うだろう?」
余裕がない時、と言われてもピンと来ません。だって私達のような
「──……まぁシオは
「うん、ちょっとわかんない」
「素直だなー……ってかさ、なんでいきなりそんな事を聞いたんだ?」
そうは言っても、実際わからないのだから仕方ない。そもそも『愛しい』という感情がわからないのです。人間は楽しいことなら率先してやりますが、面倒臭い事には手を付けようしません。
「──マスターは私の髪、梳かしてくれなかったから。それどころか、一度も触ってくれなかった」
思い出すと、なんだか胸のあたりがキュウと締め付けられるような気がしました。
「……………兄貴はさ、他人の髪を梳かすのも、
──不意に届いた言葉は明るいのに、何故か寂しさを感じさせるものでした。もしかして彼女とマスターは、あんまり仲が良くなかったのでしょうか?
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