神深探譚
旅崎 暇寛
誰も彼も それはただただ砂のひとつぶにすぎず
刺すような日差しは、午後の遅くに入っても、まるで衰えることを知らなかった。
口から吸い込んだ熱気は、胸の中で膨らむように肺を締め付ける。
それと同時に、目に映らないほどの小さな砂埃とが、身体のあちらこちらから肉体の内へと入り込む。それらはただただ不快で、体の内側から、じわりじわりと臓物を焼き付けられるようだった。
ほぼ丸一日ぶりだろうか。ふと、少しだけ強めの風が吹いて、頬をなでていった。舞い上がる砂の粒に、思わず目を細め、そこでやっと、太陽がかなり傾いていることに気がついた。
男は、重くなった両の肩を背中の裏でくっつけるようにして、胸を伸ばした。一瞬、じんわりと視界が暗くなり、すぐにもとに戻った。すこしだけ身体が楽になる。あらためて、周囲の大砂漠を見て廻した。霞んだ視界が捉えるのは、どこまでも続く黄金色の砂の波と、日暮れ前のぼんやりと白くなりはじめた雲ひとつない空だけだった。
男は、またがっている獣の首筋の、その短い毛並みをそっと撫でた。獣の身体は大気よりも、むしろ若干ひんやりとしていて、彼はしばしのあいだ、手のひらで涼を感じ取った。それはこの獣の体温が特に低いという事ではなく、午前いっぱい陽の光で温められた、このあたりの空気の温度の、異常な高さを示していた。
「このあたりにも、なにもない・・・か」
彼は獣の首筋をを撫で回しながら、ひとりポツリと、掠れた喉で呟いた。腰袋に入れてあった水筒を取り出す。蓋を開けて、口に含む。ほぼ湯に近い温度の水をほんの少し口にふくんでから、ゆっくりと飲み込んだ。湯水が喉を通り、胃袋へと滲みていった。身を焦がす太陽の下で、身体の渇きは死に直結する。しかしながら衝動に任せて、大量の水を飲んではいけない。水筒の水を飲み切るのは、無事に野営地に帰ってからだ。これは沙漠に暮らす人々の知恵であり、男はそれをきちんと守っていた。
暑さで霞む思考の奥で、男は、自身の胸を締め付けているものの正体が、砂漠の熱気ではないことを、強く感じていた。彼の身体の内側を、真にじわりじわりと締め付け続けているものは、砂漠の熱気ではなく、えも言われぬ不安と焦燥感だった。
ーーはたして本当に、この場所にあるのだろうかーー
目をつむり、大きく鼻から息を吸い、吐いた。焼けるような熱気が、鼻腔から肺を通り、再び鼻腔を通って体外へと放出されてゆく。
なんだか急に、この広い空間にポツリと投げ出された、一人と一匹が、たいそう頼りないものに感じられた。あまりにも広いこの砂の海で、無名の骸として朽ち果てる日も、そう遠い日のことではないのかも知れない。
彼はぐっと奥歯を噛み殺す。口に入り込んだ小さな砂利と共に、ふつと湧いたその無力感をじりりと噛み砕いた。彼が幾夜幾晩と抗ってきた不安が、またゆっくりと収まっていく。
ーーもう決して遠くはない。あと少しという所まで近づいているはずなのだ。なにか、なにか痕跡さえ見つかれば・・・ーー
暑さと渇きで鈍くなる思考の澱で、彼は遠き日のことを振り返る。
遡ること十余年、彼は神の声を聴いたのだ。行商隊の荷車で、体を丸めてまどろみながら。不思議と静かな夜だった。その時のことは、今はもうはっきりとは思いだせない。思い出せるのは、その時感じた興奮と、不思議とありありとした神の存在感だけだ。
その日以来、彼は自身の第六感を世界一だと自負してきた。しかし、この広大な砂漠の前で、幾日も収穫の無い日が過ぎ去るにつれ、その確信も薄ら揺らいでいく。まるであの日の夢が、ただの夢であったかのように、あるいは妄想の産物であったかのように。
何者であろうとも、この過酷な砂の海の前では、その存在はあまりにも無力である。そのことを、彼はここ数ヶ月で嫌というほどに痛感していた。
「まぁ、いまさら文句をつけても仕方ねぇか。来るとこまで、来ちまったんだからなぁ」
彼はもう一度、大きく息を吐いた。今度は先ほどとは違い、気持ちを切り替えるための前向きな深呼吸だった。
再び背筋を伸ばして、あたりを見回す。どうにも相方の姿が見えなかった。そう、彼は決してこの広大な砂漠を、一人と一匹で彷徨っているわけではないのだ。
彼は獣の首筋を、今度は"ととん"と二回叩いた。吠えろ、という合図である。
”砂犬”と呼ばれるその獣は、犬と言うにはあまりにも長い手足を持っていて、俊敏性には欠けていたが、駱駝(らくだ)と呼ぶには鋭すぎる牙と爪を持っていた。穏やかな気質を持った生き物ではあるが、一部の訓練のなされた砂犬は、その鋭い牙で野盗の対策にもなった。
まるで天にも届くような、一本の綺麗な遠吠えが、無簡素な砂漠に鳴り渡った。砂犬は人とは違って、乾いた喉でも美しい音を出す。
少しの間があった後で、今しがた彷徨って来た方角から、返事の遠吠えが返ってきた。そこまで遠い距離でもない。どうやら、この近くまでは頑張って来ていたようだが、途中でとうとう耐えかねて、砂丘の影にでも逃げ込んだようだった。もしも流砂や、あるいは危険生物に出くわしていたのであれば、先にあちらの砂犬が遠吠えを上げていたはずである。
さらに少し遅れて、遠く地平の方から、もうひとつの遠吠えが届いた。こちらは母船の返事だろう。だいぶ離れている。日々が過ぎるにつれて、一日の探索の距離が、少しづつ伸びていた。それは過酷な環境に身体が慣れていったからだけではなく、探しものが見つからない焦りによって、探索の時間が徐々に伸びているからであった。そしてそのことを、ウィルは気が付かないふりをしつつも認識していた。
白みはじめた遠くの空が、今度は茜色になり始めようとしている。ぼんやりと滲んでいた茜色は、またたく間に空を染めあげ、次いで砂の海を染めていく。世界の全てが燃えてしまうかのようなその情景は、彼、冒険家ウィルレクローズが最も気に入っている、この大砂漠の姿だった。
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