第236話

「……お母さん」


「…………ああ、?」


 雄太として、小学生だったときの記憶がおかきの脳裏によみがえる。

 冷めた態度で「居たの?」と聞き返すのはいつものことだ。

 それでも一度名前を呼ぶだけで無視せず応えてくれたのは珍しく、だからこそ雄太の記憶に残っていたのだろう。


「あの、今度……授業参観があって」


「知ってる、陽菜々の授業見に行くから。 で?」


「……あの、こっちにも……来てほしい……」


「はぁ? 父親の方に頼めよ、なんでアタシに言うの!? 嫌がらせ!? ねえ、アタシのこと虐めて楽しい!?」


「ご、ごめん……なさい……」


 力強く何度も掌を叩きつけられたテーブルからビールの空き缶が落ち、雄太の足元に転がる。

 いつものことだ。 気に入らないことがあればすぐに癇癪を起こし、周りの物に当たり散らす。

 そして雄太が話しかけると、十中八九彼女は機嫌を悪くする。


「チッ……あ゛ぁ゛~ふっざけんなよホントさぁ……! ほんっと可愛くない、その声も顔も目も何もかも! アタシはねぇ、もっとちゃんとした女の子が欲しかったの!!」


「…………」


「陽菜々もさぁ、最初は可愛かったのに最近アタシの言う事聞かなくなってきたし! ねぇ、あんたを産んでからこうなったの、わかる!?」


 酒臭い息とともに吐きつけられるのは、理不尽極まりない怒号。

 陽菜々が母親の言うことに従わなくなったのは、その本性を知ったからだ。

 皮肉なことに反面教師としては非常に優秀な母親の姿を見て育ち、我が振りを直すほどよくできた子供だった。


 それでも母親にとって“優秀な子供”とは、自分の思い通りになる都合のいい人形だったのだから、早乙女 陽菜々は失敗作でしかない。


 「こんなはずじゃなかった……こんなはずじゃなかったの! 金の稼げる旦那捕まえてさぁ、私みたいに可愛い子供が欲しかったの!!」


「…………」


 髪の毛をかき乱す母親の傍ら、雄太は散らかったビール缶を片付け始める。

 こうなったらもう何を言っても聞く耳持たない、火に油を注ぐべきではないということを彼はこの年にして学んでいた。

 家事を半ば放棄し、酔いに任せて我が子へネグレクトに近い仕打ちを押し付ける。 早乙女 四葩という女は母親としては失格と言っていい。


 だが雄太は母親という存在を彼女しか知らない。 雄太にとってはこれが常識だから耐える。 耐えてしまう。

 仕事に忙殺される中、たまに帰って来る父親の存在がなければとっくに壊れていたかもしれない。 

 早乙女 雄太は母親以外の家族に恵まれたから、なんとか自分を保つことができた。


「いらない、こんなのいらない……なんでお前なんか生まれてきたの……」


 それでもたまに、ほんの少しだけ、こんな母親でも母親だから。

 母親に抱きしめてほしくて、撫でてほしくて……「自分」が「自分」じゃなければよかったと思うこともあった。


――――――――…………

――――……

――…


「……おかき。 しっかりしなさいおかき」


「―――っ……あ、甘音さん……」


 甘音に身体を揺すられ、おかきの意識が現実へと戻る。

 意識が遠のいていたのはほんの一瞬。 幸いにも口から漏れ出た母を呼ぶ声は盗聴防止機器に阻まれ、届かなかったようだ。


「ねえ、退けろっつったんだけど聞こえなかった? それとも理解できないぐらい頭が悪かった?」


 高圧的に腕を組み、おかきたちを見下す長身の女性はふんと鼻息を鳴らす。

 自分が世界の中心だと言わんばかりの傲慢、不気味なほどに何も変わっていない早乙女 四葩がそこにはいた。


「探偵さん、る?」


血気盛さかんなや爆破魔、ここじゃ人目につくからもっと奥まったところ行ったときがチャンスや」


「パイセン、殺意が隠せてないよ」


「あーはいはいはいごめんなさいねちょっと友達と話し込んじゃってー! ほらほら退きなさいみんな往来の邪魔よ」


「ふんっ、躾のなってないガキども。 とは大違いだわ」


 顔が真っ青なおかきに代わり、笑顔を作った甘音が殺意が漲る面子を端に押しのける。

 そしてそれが当然であるかのように肩で風を切りながら通り過ぎようとする四葩……だったが、その足はおかきとすれ違う寸前で止まった。


「ねえ、ちょっとそこの君。 顔上げてアタシによく見せて?」


「……は?」


 今までの悪し様な態度が夢であったかのような猫なで声で、四葩はおかきへと語り掛ける。

 高そうなコートが汚れることも気にせず、床に片膝をついて視線を合わせるその仕草は、おかきが知る母親像とは欠片も一致しない。


「ちょっと、私の友達に何……」


「――――キャア~~~~!! 可愛い!! あなた最高!! どこの子? どこから来たの? 事務所とか入ってる!?」


「え、あっ、えっ……と……?」


 雄太には決して向けられることのなかった歓喜の声と笑顔におかきは硬直する。

 いつもならうるさいほど滑らかに回るはずの頭がまるで働かない、何が起きているのか理解できない。


「あっ、急に騒いじゃってごめんね~お姉さんこういう人なの! ねっ、ねっ、お嬢ちゃんって芸能界興味ある?」


「……株式会社、クリスティプロダクション」


 おかきはまくしたてるままに渡された名刺に印字された文字をそのまま読み上げる。

 それはおかきたちでも名を知る大手芸能事務所の名。 そして早乙女 四葩は現在クリスティプロダクションを運営する社長、その奥方の座に座っていた。


「ねえちょっとだけ時間ちょうだい! あなたなら絶対最高の」


「――――ちょっとそこの元母親!! こんな往来で何やってんの!?」


「……はぁ?」


 ツカツカと通路の響くヒールの音を追い越し、自分の都合をまくしたてる母親に向けた怒声が飛ぶ。

 みんなの注目が集まる中、通路の先から駆け寄ってきたのは、糊のきいたスーツに身を包んだ姉の姿だ。

 

「ひっさしぶりじゃん、元気してたァ……? この、クソ女!」


母親アタシのことクソなんて呼ぶんじゃねえよ、陽菜々ァ!」

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