第118話


 出入り口から一番近い席、そこに彼女は座っていた。

 扉は揺れ、ドアベルはまだ余韻を鳴らしている。

 今入店してきたことに間違いはない、だがあまりにも自然な佇まいは、話しかけるまでその存在をおかきに認知させなかった。


「こんにちは……いえ、そろそろこんばんはというべき時間でしょうか?」


「……何者ですか、申し訳ありませんが今日は店じまいです。 ただのお客様なら出直してください」

 

 肌の露出が少ない修道服に身を包み、寝ているかのように目を瞑ったまま少しだけ身体が俯いている。

 それは、頭巾の隙間から覗く白髪をかき上げる仕草すら妖しい雰囲気を醸し出すシスターだった。


「まあ……それは存じ上げませんでした。 ですがとても都合がいいですわ」


「都合がいい……ですわ?」


「申し遅れました、わたくし子子子子ねこじし 子子子ねじこと申します。 以後お見知りおきを」


 席を立ち、子子子と名乗るシスターはスカートのすそをつまんでうやうやしく一礼する。

 顔を上げ、おかきを見つめるその瞳には星のような彩光が宿っていた。

 

「藍上 おかきさん、ですね。 ふふ、わたくしと同じユニークな名前でとても憶えやすかったです」


「何者ですか? この状況も偶然とは思えません、あなたの仕込みですね」


「いいえ、これもまた神の寵愛ですわ。 、憩いの場を設けてくださいましたの」


「…………」


 おかきは会話しながらポケットのスマホを操作する。

 緊急用のSOSシグナルだ、本来ならばこれですぐに救援が駆け付けるはずだ。


「まあ、そんな緊張ならず。 わたくしは新しい同士に挨拶をと思っただけですの」


「結構です、あいにくと仕事中なもので」


「まあまあ、どうせしばらくは誰もここには戻りません。 少しぐらい怠けても神は罰を与えませんわ」


「…………」


 救援は、こない。 ウカならばまだそう遠くにいないはずだ、しかしウカどころか誰も戻ってくる気配がない。

 明らかに何かがおかしいが、その正体がわからないのだ。 おかきは言葉にできない不快感に顔をしかめる。

 そして一度呼吸を整え……子子子と対面する形で席に着いた。


「噂通り胆力がある御方ですね、わたくしもとても嬉しいですわ」


「情報が足りないので探るだけです。 あなたが何者なのか、この状況のトリックはなにか、これから暴きます」


「ふふふ、それは楽しみですこと」


 子子子は花もほころぶような笑みを浮かべると、小さなポーチの中から一組のティーカップとペットボトルのお茶を取り出す。

 化粧ポーチ程度の大きさから取り出すにはあまりにも過ぎたサイズだが、いまさらおかきもその程度では驚かない。

 むしろわざわざティーカップまで用意して、注ぐドリンクが「午前のお茶」だったことの方にツッコむところだった。


「粗茶ですが」


「ど、どうも……当たり前ですが既製品の味ですね」


「ええ、保証された品質ですの。 それにしても毒の類は心配しないのですか?」


「わざわざこんな回りくどいやり方で殺害するとは思えません。 あなたは何か目的があって私と接触した、違いますか?」


「…………ふふふ、やはり直接顔を合わせて正解でした」


 子子子はおかきを見つめながら、その目を細める。

 本人の感情はわからないが、おかきにはどうも蛇に見つめられているような気分だった。


「あらためて自己紹介を。 カフカ症例第6号、名もなき神の教団所属の子子子子 子子子と申します」


「名もなき神の教団……?」


「ええ、その名の通り宗教団体と思ってくれて構いません。 SICKにも何度かお世話になったことがございます」


「それはいい意味でお世話になっているんですかね」


「ふふ、ご想像にお任せいたしますわ」


 子子子は腹の底を見せない笑顔を崩さない、対するおかきは会話を交わすだけでフルマラソンを走るほどの消耗を感じていた。

 子子子の声は聞いているこちらが眠くなるようなおっとりとした調子で、やけに鼓膜に張り付いて離れない。 それが余計に精神を摩耗させる。


「まあわたくしの所属についてはまたのちほど。 まず話すべきはなぜあなたに声を掛けたか、ですね?」


「スカウトならお断りですよ」


「実はあなたをスカウトしようと思って」


「聞いてます?」


「ええ、ええ、聞いております。 しかし諦めたくはありません、だって……ああ、だってあなたは……こんなにも神のご加護をお持ちではありませんか!」


 突然子子子は興奮し、椅子を倒しながら立ち上がる。

 その顔には恍惚に歪み、だらしなく緩んだ口の橋からはよだれが零れていた。

 先ほどまでの落ち着いた態度から一変した変貌に、おかきも思わず椅子を引いて距離を取る。


「ひのふのみいの……いったい何柱の加護を……! ああそんな、羨ま……いやらしい!!」


「いやらしい!?」


「いやらしいですとも! そんなとっかえひっかえ……もはや乱交では!?」


「ウカさーん!! 甘音さーん!! 助けてー!!!」


「ふふふふ、無駄ですわ誰も来ませんわ。 しかしここまで紙に愛されているならば、あなたとの姦淫はつまり神との交配にほかなりませんわ」


「姦……!?」


「藍上さん! ぜひとも私と一緒にセッ――――」


 子子子の言葉を聞くよりも早く、おかきは反射的にその場から逃げ出した。

 そのまま脱兎のごとく出入り口に飛びつくが、ドアノブに手を掛けた途端にボキリと取っ手が折れた。


「そんなアホな!?」


「うふふ、無駄でしてよ藍上さん。 大丈夫です、あなたは天井の染みを数えていれば……」


「うわー!? 誰かー!!!」


 鼻息荒く、爛々とした目でおかきを見つめたままおかきに近づく子子子の様子は異様だ。

 初恋を抱く乙女のような、それでいて獲物を見つめるヘビのような、あるいは生娘を見つめる下卑た親父のような目で、腰が抜けたおかきを見下ろしている。

 いや、おかき本人は見ていない。 どこか遠く、まるでその奥にある何かを見つめているようでピントが合っていない。


「体格ならわたくしの方が上です、抵抗できると思わないでくださいね。 では失礼して……」


「ひ、ひえっ……!」


「――――ふむ、少女たちの蜜月を邪魔するのはいささか無粋だったかニャ?」

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