第92話

 クラウンの存在は麻里元たちも警戒していた、必ずジェスターの救出と原稿を狙いに現れると。

 しかしその注意はすべて見通しが悪い茂みや死角に向けられたものだ、いつ何が飛び出してもすぐさま対応できるように。

 だからこそ、「すでにそこに在るもの」には反応が遅れてしまったのだ。


「んー、なかなかいい住み心地だ。 一本貰って行っていい?」


 おかきたちの背後にぶら下がったツタ、その断面からまさかクラウンが出てくるとは誰も予想できなかった。


「へっ? 誰――――」


「―――――先輩!!」


 自身の胴囲より直径が小さいツタからずるりと這い出たクラウンは、その手に持ったククリナイフを振り下ろす。

 狙いは命杖が持つ万年筆、だが人体ではありえない弾力でゴムのように伸びた腕の速度は、命杖の片手ごと切り落とす勢いだ。

 理解不能の出来事に一瞬硬直してしまったおかきでは間に合わない。 ジェスターの捕獲と周囲の警戒に気を配っていた麻里元たちもだ。


 、ピエロの凶行を止めることはできない。


「……あのぉ、局長? これってどういう状況です?」


 一発の銃声が響き、今まさに振り下ろされようとしていたナイフがけたたましい金属音を立てて弾き飛ばされる。

 そう、この場にいる人間ではけっして止めることはできない。

 ゆえにクラウンを止められるのは、部屋の外から救援に駆け付けた人間だけだ。


「い、飯酒盃先生……!」


「おおっとぉ? 俺今けっこう本気で殺る気だったんだけど?」


「良いからクラウン、あなたは2人から離れて両手を上げなさい。 局長、これでいいんですよねぇ?」


「ああ、よくやってくれた飯酒盃。 無事だったか」


 クラウンの暴挙を阻止したのは、ボロボロのドレス姿のまま拳銃を構えた飯酒盃だった。

 爆発に巻き込まれた傷跡は痛々しく、片足を伝ってドレスより赤い血がしたたり落ちている。

 しかしそんな苦痛をおくびにも出さず、飯酒盃が構える銃口はクラウンの頭部に狙いを定めていた。


「直前にウカさんが地面から植物を生やして守ってくれました、民間人も多数が無事です。 今は救護部隊が保護しています」


「わかった、では我々も残るサーカス団を捕まえて合流することにしよう」


「オイオイオイオイそりゃねえぜ! ピエロが舞台を降りちまったら誰が観客を笑わせるってんだ!?」


「黙れ、それ以上妙な動きを見せるな。 この距離ならお前の頭を吹き飛ばす方が早い」


「妙な動きぃ? ああそれならもうから気にしなくていいぜ」


「……なんだと?」


 追い詰められてなおクラウンが余裕の笑みを見せる。

 ほぼ同時に、命杖の身体をかばって抱きかかえていたおかきが、ぱたりと倒れた。


「早乙女君!? な、なにこれ!?」


「HAHAHA! 残念ちょっと遅かった、掠っちまったなぁ俺のナイフに!」


「っ……ぁ……! これ、は……!?」


 苦悶の表情を浮かべるおかきの頬に、無数の黒斑が浮かび上がる。

 それは瞬く間に膨らむと、人の唇に酷似した形状となり、血を吐き出しながらゲラゲラと下品な笑い声をあげ始める。

 何よりおかきを苦しめたのは、唇が開くたびに走る肉が裂けるような激痛だった。


「あ、が……い、づ……ッ!?」


「HAHAHA!! 運がねえなあお嬢ちゃん、不運すぎて笑えるぜ!!」


「黙れ、余計な口は開くな」


 苦しむおかきを見下ろしながら腹を抱えて笑うクラウンの首筋に、鋭く研がれたクナイが当てられる。

 局長や飯酒盃よりも早くクラウンの背後を取ったのは、普段とは別人のような殺気を放つ忍愛だった。


「新人ちゃんに何をした? 話さないなら殺す、治せないなら苦しめて殺す」


「おーおーどうどうどう、慌てんなって。 ジェスター君を離すなら治してやってもいいぜ?」


「駄目だ、先に新人ちゃんを治せ。 お前の言葉は信用できない」


「いいのかよ、俺に構ってると大事な後輩ちゃんが死んじまうぜ?」


 忍愛とクラウンが問答を繰り返す間も、おかきの体を蝕む黒斑はどんどん広がっている。

 そのたびに笑う口から吐き出される血の量も増え、おかきの顔色は蒼白に染まる一方だ。

 このままでは出血が致死量を超えるまで残り数分もない、状況は完全にクラウンが掌握していた。


「……おい、聞いただろ? 私を離せSICKの女!」


「…………局長、お願い。 新人ちゃんが死んじゃう」


「ま、待って下さ……忍愛さ……!」


「おかき、君はそれ以上喋るな。 ……仕方ないな」


「おい、何する気だゴリラ女! おい待て私を片手で持ち上げるんじゃ……ウワーツ!?」


 麻里元はジェスターを拘束する縄を素手で引きちぎると、彼の首根っこを掴んで放り投げた。

 クラウン目掛けてまっすぐ飛んで行った彼の身体は、衝突寸前で受け止められる。

 

「クソッ、乱暴な女だな! おいピンク頭、お前も離れろ! 後ろから切られちゃ困るからな!」


「いいから早く新人ちゃんを治せよ! 約束だろ!?」


「HAHAHA! ピエロとの約束が守られると思ってるタイプ? 残念無念、そりゃないぜ!」


「おい待――――!」


 クナイが届くより一瞬早く、クラウンとジェスターの身体が煙幕に包まれて視界から消える。

 忍愛が脚の一振りで煙を振り払うと、すでに彼らの姿はどこにもなかった。


「クソッ、逃げやがった! 局長!!」


「追うな、それよりおかきの状況が深刻だ。 山田は医療班を連れてこい、飯酒盃は止血を手伝ってくれ」


「っ! わかった、秒で戻る!!」


「おかきさん、しっかり! 模倣子対抗薬が機能しないってことは肉体変質? だとしたらえーっと……」


「あの、局長……」


「喋るな。 安心しろ、必ず助ける」


「いや、そうではなくてですね……治ってます」


「……うん?」


「治ってます、きれいさっぱり。 頭がくらくらしますけど平気です」


 片手を振って無事をアピールするおかきの顔に、さきほどまで生えていた夥しいほどの口蓋はひとつも残っていない。

 どういうことかと混乱するおかきの手首には、一本の注射針が突き刺さっていた。

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