第10話 終末の街角

 俺は人の気配を避けながら歩いて行った。

 仕方がなく人とすれ違う時は、なるべく離れて、ゾンビマークや血染めの上履きに気がつかれないように気をつけながら。

 でも、前から来る人達は大抵、必死な形相で走っているか早足で歩いているかで、俺に気をとめる人はいなかった。

 それに、すれ違う人の中にも、血に染まった服を着ている人達はけっこういた。

 だんだんと俺の異様な服装が異様ではない世界になりつつあった。


 しばらく歩いていると、突然、悲鳴が聞こえた。

 少し先の路上で、スーツ姿の男が若い女性に馬乗りになっている。

 男の顔にはゾンビマークが浮かびつつある。ゾンビ男は、口から舌を出し、涎をたらしながら、女性の顔に、顔を近づけていく。

 すでに理性を失い、ゾンビウイルスによる影響、体液交換への欲望だけが男を支配しているようだ。

 

 俺は駆け寄り、とっさに近くに落ちていたビジネスバッグを手に取り、それで思いっきりゾンビサラリーマンの頭をぶん殴った。

 一発ではきかなかったので、何発も。ゾンビ男の頭がパンチングボールのように揺れ動いた。

 ゾンビリーマンは泡をふきながら怒りの声をあげて立ち上がり、俺に襲いかかってこようとした。


 その時、俺がもちあげていたビジネスバッグの中から、携帯の呼び出し音と震動音が聞こえた。

 ビジネスバッグから、スマホが転がり落ちてきた。

 とたんに、ゾンビリーマンは、スマホにとびついた。

 スマホを耳にあて、ゾンビリーマンはしきりにヘコヘコ頭をさげはじめた。

 そしてそのまま、ゾンビリーマンは、ヘコヘコ頭をさげながら、ふらふらと立ち去って行った。

 俺のことも女性のことも忘れたように。


(社畜根性がゾンビウイルスの支配を上回ったのか……?)


 だとしたら、日本のサラリーマンは、すごいな。

 俺は、襲われていた女性に声をかけた。


「大丈夫ですか?」


 俺がたずねながら近づくと、女性はとたんに恐怖の表情で、つんざくような悲鳴をあげて、逃げて行った。

 女性の表情は、おもわず俺まで悲鳴をあげそうな恐ろしい表情だった。

 逃げていく女性を、ぼうぜんと見送った後。

 俺は、俺の顔を隠していたはずのハンカチがはずれて首にぶらさがっていることに気がついた。

 ゾンビリーマンと格闘していた時に、ずれ落ちてしまったらしい。

 ハンカチを結びなおしながら、俺はふたたび家に向かって歩き出した。



 俺はこのあたりで最もさかえている繁華街にむかっていた。繁華街を超えた先に俺の家はある。

 繁華街の中心に近づくにつれ、辺りは異様さが増していった。

 すれ違う人達の必死さも増していた。たいてい、命からがら何かから逃げているような様子だ。

 あちこちで車や店舗の防犯装置が警報音を鳴り響かせていた。

 塀や電柱に衝突した車が放置されていて、少し先のビルからは煙があがっていた。


 俺はコンビニの前を通りがかった。


(そうだ。帽子とマスクを探そう)


 コンビニの入り口に立ち、俺は中をのぞきこんだ。

 レジに人はいない。店の中には商品が散乱している。誰かがここで暴れたようだ。

 でも、今の俺にとっては、こういう無人の店の方が都合がいい。

 俺はコンビニの中に入ると、ニット帽とマスクを探した。


 帽子を探して歩いていた俺は、アイスボックスの近くを通り過ぎようとして、ぎょっとして立ちどまった。

 俺は、恐る恐る、アイスボックスに視線を戻した。

 アイスボックスの中に、人が入っている。

 いや、ゾンビが入っている。お風呂にでも入っているかのような様子で。


(発熱で暑かったのかな……)


 でも、関係ないかもしれない。

 スマホを片手に、ゾンビは満面の笑みでピースをしていた。


 満足げなゾンビは無害なので、俺は無視して帽子とマスクを探しだし、無人のレジに向かった。

 このまま持ち去ったら万引きと同じだから会計をすまさないと。でも、レジに人はいない。

 おつりはもらえそうにないな、と思いながら、俺はレジに少し多めに代金を置いた。

 すぐにその場で帽子とマスクの袋をあけて装着した。

 コンビニの鏡で確認しながら、ニット帽をなるべく深くかぶって、マスクをつけ、ハンカチを首に巻く。これで、ゾンビマークは、ほぼ見えない。

 

 すこしほっとした気分になって、俺はコンビニを出て、家の方角にむかって歩いて行った。

 やがて繁華街の飲食店が並ぶ通りにさしかかった。営業している店はほとんどない。

 でも、路上で飲んでいる人達がいた。店が閉まっているけど、どうしても飲みたくて外で飲んでいるようだ。

 飲みながら、楽しそうにしゃべっている。


「ゾンビウイルスなんて、かぜみたいなもんだ」


「うー!」


 そう相槌を唸って、元気にチューハイの缶をもちあげている人の顔には、はっきりゾンビマークが浮かんでいる。しゃべることもできないほどに症状が進んでいるようだ。

 だけど、話しかけた方の人は、全く気にしない様子で楽しそうに宴会を続けている。

 酒とウイルス、どっちが脳をマヒさせているのかわからないけど、目の前の異変に気がつかないみたいだ。


 結局、この辺りでは、帽子もマスクも必要なかった。

 誰も歩いていく俺に注意を払わない。

 すでに非感染者は、ほとんどいない。


 若者に人気のファッションブランドの路面店の横を通りがかった。ショーウィンドーにマネキンのように見えているのは、よく見るとショップ店員だった。

 おしゃれな服を着ているけど、顔や手足にはゾンビマークが浮かんでいる。

 ゾンビ店員はショーウィンドーの台に、マネキンのように座って、洋服を手にぼーっとしている。


 ゾンビがいるっていうことは、たぶん、安全だ。

 これまでの経験からそう思った俺は、店に入って靴を探した。

 上履きは底が薄くてアスファルトの上を歩き続けていたら足が痛くなってきた。それに何より、血で濡れた上履きが汗で蒸れて気色が悪い。よく考えれば、宇野の血液は感染源だから、俺はウイルスをまき散らしていることになるし。


 この店のスニーカーは目玉が飛び出るほど高かった。だけど、今さらお金の心配をする必要はない気がする。

 明日生きているかもわからない。

 でも、だからといって、俺はまだ万引きをする気にはならなかった。

 現金はもうほとんどないから、電車のICカードを使うしかない。

 問題は、ICカードをどうやって使うかだ。


「すみません。お会計をお願いします」


「うー」


 いちおう、お願いしてみたけど、ゾンビ店員は一言唸っただけで動いてくれない。

 俺は自分でレジを操作してみた。バーコードを読み取り、決済方法を選ぶ。

 意外と簡単だった。

 

(なんで俺は、こんな時におしゃれな店で買い物をしてるんだ? おしゃれオーラの敷居が高くてゾンビになるまで入ったこともなかった店で)


 そう思いながら、俺は血まみれの靴下をぬぎ、靴を履きかえた。


 俺はふたたび歩きだし、普段は一番賑やかな町の中心にさしかかった。ほとんど誰もいない。

 ただ、横断歩道に布団を敷いて寝転っている人がいた。

 それから、何かから逃げるように猛スピードで走る車が一台走ってきた。

 その暴走車が横断歩道を通過していった。

 俺は息をのんだ。俺は見てしまったのだ。

 寝ていた人の両足の上をたしかにタイヤが通過していった。

 でも、轢かれた人、いや、ゾンビは、痛みを感じないらしい。無反応だ。

 ゾンビはただ空を見上げて、他には誰も通行しない横断歩道で、文句も言わずに静かに寝転がっている。


 混沌としている。だけど、静かで平和だ。

 このあたりに、もう警察はいない。

 感染拡大スピードが速すぎて、ここでのゾンビ捕獲はあきらめたんだろう。

 でも、俺にとっては、こうなってしまった方が安全だ。

 俺はようやく安全な場所に逃げてこられた。ゾンビしかいない場所へ。

 俺はほっとして街並みを見上げた。

 ゾンビ以外に人のいない繁華街は、すっかり荒廃した世界に見える。建物自体は何も変わっていないのに。


 警察なのか、市役所なのか、どこか遠くから拡声器で呼びかける声がかすかに響いていた。


「ゾンビウイルス感染症が流行中です。本日、緊急事態宣言が発出されました。なるべく人との接触を避け、すみやかに家に帰り、外出を自粛してください。くりかえします。ゾンビウイルス感染症が……」


(今更そんなことを言われても、もう遅い)


 俺は心の中でつぶやいた。

 俺は、もうゾンビだ。みんな、もうゾンビだ。

 なんで、もっと早くに対策を取ってくれなかったんだ。

 安心してちょっと油断した俺の目から、涙が零れ落ちた。でも、どうせ、誰も見ていない。

 溢れる涙は流れ落ちるまま、俺はゾンビが徘徊する廃墟のような町をゆっくりと歩いて行った。

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