クリア─或る日、或る人─

駄犬

つかぬこと

 後ろへ流れた時間は惜しむべからず。明くる日の週末に期待を含めば、厳格な週明けの辛酸を舐めることになる。故に今は、自重を軽はずみに動かし有益なる舞いに励むべきなのだろう。しかし、悲しいかな。便意の列強に曝され、電話ボックス程度の敷地面積で踏ん張る他ない状況にあった。


 絞り上げられた腹筋に支えられる、シャカリキな肛門が放つ衒いない下卑た音は、野火の臭い漂わす。決して蔑ろにはできない、動物の生命活動の一環だが、排泄物と向き合うこの情熱を幾ばくか他のことに注いでみたいものだ。万年、便秘ぎみの自分がトイレに閉じこもった際に考える、なけなしの現実逃避である。もし仮に、この時間を情事と置き換えられたなら、きっと素晴らしい体験になるはずだ。止むに止まれぬ行為と、一人で致すこともできる性欲の吐露を結び付けるのは些か、釣り合わない気もするが、長い格闘のすえに脱糞をこなす清涼感は快楽とほど近く、なかなか甲斐性があった。


 あらゆる事象を前向きに捉えようと幾ら努力をしても、悩みは尽きない。経済動物に於ては下等も下等。見せかけの財布がくたびれて久しい。何千里と離れた牛の赤身の価値を計るのは値段である。硬さや味などは副産物に過ぎず、賞味期限との折り合いで冷凍保存に頼る。


 日本で四季を楽しむということは即ち、劣悪な環境を受け入れることだ。窓を開けるなどして気温の変化についていくアパートの一室で、布団は発酵も辞さない。毎夜、両隣から筒抜ける生活音に耳を潰しながら、死を手元に引き寄せて眠りにつく。人生を謳歌するには、どれもこれも足りない。なにか期待をするならば、遺伝子操作による職業選択が先鋭化する近未来を祈るばかりです。憂き目に遭う者が出来るだけ少なくなるように。


 文明と社会の飛躍を訴える自分の鈍く光る唯一の才能は、愚直に社会に生きることだ。町の食卓と遠足のおやつの要衝であるスーパーに従事する自分は、客足がもっとも盛んな時刻に身を置いていることもあって、御用となった盗人の姿を多々見てきた。本来、その類いに目敏い者に任せるべき事柄だったが、如何せん視界に飛び込んでしまったものだから、仕方なしに動向を伺うはめになってしまった。なんと頭の痛い光景だろう。幼年の心の隙間が覗かせる魔の仕業だと思いたい。そして、今の彼が経験すべきなのは、手痛い叱責だ。教訓をたれれば、忌避の心を芽生えさせる人生を送ってきた。それは、嘆くより有意義で喜ばしい。彼の人生に僅かばかりの貢献を。そう、思い至ったはずが、


「今、商品を懐に忍ばせたでしょう。店を出る前に棚へ戻しなさい」


 本来なら、店を出たところで声を掛けて、親御さんに連絡などして反省を促すところだ。この助け船は彼の為にならない。そう思いつつ、そぞろに声を掛けてしまった。


「なんのことを言っているの?」


 商品を懐に忍ばせた上、憎たらしいほどの惚けた顔と、じれったい声の操り方からして、初犯とは到底思えなかった。


「しっかりと見たんだ。君がお菓子一つを」


「なら、探ってみる?」


 まるで声を掛けられる言葉を予期していたかのような不敵さがあった。


「自分で出しなさい」


「だからぁ、取ってないものを出すって、ぼくは魔法使いじゃないんだよ?」


 悪事を暴く正義感はほとほと消え、小賢しい挑発を看破する事に目を剥き、服のうえから手を這わせる。


「ないでしょう?」


 冷や汗が額を流れる。まさか、そんなはずがない。この目で確かに見たのだ。


「……」


 後ろ手を使って棚へ戻した。そう納得し、帰着するのが普通だ。しかし、時として、意図せず、思考はあらぬ方向へ転がる事がある。


「消したな?」

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