レフトハンド

大隅 スミヲ

第1話 医師

 天井にある蛍光灯がチカチカと点滅を繰り返していた。


 祖父の代から続くこの小さな診療所には、近所に住む老人たちが入れ替わり立ち代わりやってきては、健康相談をして帰る。

 大抵、ここに来る老人たちは健康体であり、元気になる薬と称したビタミン剤を処方されることで、満足して帰っていくのだ。


 いつもはあまり気にならないが、きょうに限ってはその蛍光灯の点滅がやけに気になっていた。

 そろそろ替え時だろうか。

 患者としてもたまに顔を出す電気屋の主人によれば、いまは蛍光灯ではなくLED照明の方が主流だそうだ。

 もし、次に付け替えるならLED照明の方が良いと力説していたが、どうもLED照明は明るすぎる気がして、この古びた診療所には似つかわしくないように感じていた。

 この診療所には、薄暗い蛍光灯照明が似合うのだ。


 天井を見上げながらそんなことを考えていると、人の気配を感じた。


 視線を戻すと、ちょうど入口のところから若い看護師に付き添われながら、ゆっくりと歩いてくる老人の姿があった。


 老人というのは妙なもので、時おり、見た目だけでは男性なのか女性なのかわからない人がいる。

 髪は短くさっぱりとしており、やせ型、歳は80を超えていると思われる。化粧っけのない顔だが、肌つやも良く、ぱっと見では健康そのものに見えた。


 老人はわたしの前に置かれている背もたれのない丸椅子に腰をおろすと、自分がどれだけ調子が悪いかということをアピールしはじめた。


 わたしはそのひと言ひと言に相づちを打ち、老人の言葉が途切れるのを待つ。

 ちらりと見たカルテには老人が女性であるということが書かれていた。


 聴診器で肺や心臓の音を聞き、異常がないことを確かめる。

「どこも悪くないですよ、大丈夫です」

 そう伝えると、目の前に座る老人は少し寂しそうな表情を浮かべた。


「一応、元気になる薬を出しておきましょうか。毎晩、寝る前に一錠飲むようにしてくださいね」

 その言葉に老人の表情が少し明るくなる。

 別に危ない薬を出しているわけではない。先ほども述べたが、処方する薬はビタミン剤なのだ。食事では取ることが出来ないビタミンを補ういわばサプリメントのようなものだ。

 老人は大げさに頭を下げて、礼をいう。


「お大事にどうぞ」

 わたしの言葉を背に受けながら、ゆっくりとした足取りで老人は診察室から出て行った。

 老人のカルテには異状なしと書き込み、ビタミン剤を処方したことを付け加える。


 カルテを書き終わったところを見計らって、看護師が次のカルテを手渡してくる。

 受け取ったカルテに目を落としたが、スタンドライトの光が強すぎて、患者の氏名欄をうまく見ることができない。


「次の方、どうぞ」

 狭い診察室に、看護師の元気な声が響き渡る。


 昨年の春に看護学校を卒業したばかりの看護師は、今年で二十三歳になるショートカットがよく似合う女性だった。

 ようやく仕事に慣れて来たのか、最近は患者としてやってくる老人たちと楽し気に話をしている姿をよく見かける。


 看護師の声に反応するかのように診察室のドアが開けられると、そこには見覚えのある男が立っていた。


 なぜ、この男はわたしの職場にまで姿を現すのだろうか。

 男の姿を見ただけで、わたしの心は乱れていた。


「きょうはどうされましたか」

 動揺を悟られまいと平静を装いながら、入ってきた男に尋ねる。

 しかし、その言い方は下手な役者の棒読みセリフのようなものであり、違和感があるものとなってしまった。


「なんだか、少し左手の調子が悪いんです」

「左手……左手ですか」

 わたしはカルテに文字を書き込むのを止め、目の前に座る男の顔を直視した。


 なぜか男の顔をはっきりと見ることは出来なかった。

 輪郭がぼやけ、目鼻口の位置が曖昧になっている。

 はっきりと見えるのは、まっすぐに伸ばされた男の左手だけだった


 こちらに向かってまっすぐに伸ばした男の左手。

 着ているコートの袖口から何かが出ているのが見えた。

 黒光りする鉄の塊だ。


 わたしはそれが何かわかっていた。

 男がこの診察室に入ってきた時点で、その存在には気がついていたはずだった。

 デリンジャー。

 そう呼ばれる小型拳銃が、黒光りする鉄の塊の正体だった。


「残念だったな、川瀬」

 男が笑ったような声でわたしに言った。


「ちょっと待て、人違いだ。わたしは、川瀬という人間ではない」

 わたしは慌てて否定した。人違いだ。人違いなんかで撃たれたのでは、たまらない。


「嘘を吐くな。お前は、川瀬だ」

「違う!」

「嘘だ」


 目の前に男の左手に握られたデリンジャーの銃口があった。

 殺される。

 そう思ったと同時に、轟音が診察室内に響き渡った。




 その音で、わたしは悪夢から現実世界へと呼び戻された。


 キングサイズのベッドの上で起き上がると、わたしは汗まみれになっていた。

 ふと床を見ると、そこには寝る前に読んでいた推理小説がベッドの下に落ちていた。


 夢の中で鳴り響いた轟音は、この本がベッドから落ちた音だったようだ。

 寝る前にこんな小説など読むから悪夢を見るのだ。


 わたしはひとりで苦笑いをすると、身体にまとわりつく汗を流すために、バスルームへと向かった。


 バスルームに向かう途中で見た壁掛け時計の針は、まだ深夜二時を指していた。

 寝酒としてブランデーを飲みながら、推理小説を読んでいたのが午前零時になる頃だったと記憶しているから、まだ二時間しか睡眠を取っていないことになる。


 そういえば、以前も同じような夢を見たことがあるような気がした。

 いつ、どこで、その夢を見たのかは思い出すことはできなかった。


 どこか、心の奥底に引っかかっているような、その悪夢。

 まさかこの悪夢が、自分にとって重要なものであるとは、この時は知る由もなかった。

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