夢――母
博士が私にリンの寿命を告白した翌日から、彼女は夜な夜な研究室に籠もるようになった。
その研究室へは、博士以外は誰も出入りができないようロックされていた。
そうして夢の中でも月日は経ち、リンが九歳になった年、博士の身体を汚染病が蝕んでいった。
死期を悟った博士はある夜、私を呼んだ。
部屋に訪れると、ベッドで上体を起こした博士が出迎えてくれた。彼女は私がベッド側の椅子に座るのを見届けると、さっそく本題を切り出してきた。
「私が死んだら、ここのアクセス権限は貴女に移行するよう設定しているから」
「それは私ではなく、リンに渡すべきなのでは」
博士は緩く頭を振る。
「ここで最後に残ることになるのは貴女だから。それにあの子、機械は苦手でしょう?」
「そうですね。気象予報の見かたも未だに覚えてくれません」
「科学者の子供とは思えないわよね」
博士が笑う。そしてふと彼方を見るかのように目を細めた。
「でも、それで良かったのだと思う。科学に、世界に興味を持つと、世の中の嫌な部分も見えてしまうから」
「博士も見えたのですか」
「えぇ、だからここにいるの」
苦笑して博士はそう言うと、空中を操作して私の前にディスプレイを表示させた。
「それ、
ウィンドウには一つのファイルが表示されている。
それは博士がリンに残した動画ファイルだった。
この動画は博士に言われた通り、リンが十六の誕生日に渡した。
その時は再生だけして席を外すつもりだったが、リンが一緒に見てほしいと言ったので私も内容は知っている。
リンが成人したお祝いと、たわいのない話、そしてリンの寿命に関することだ。
動画で博士は短命と分かっていてリンを生みだしたと告白していた。そして全ては自分の一存だと。
エンのことについては一言も触れてはいなかった。おそらくエンのことを悪者にしたくはなかったのだろうと思う。リンの短命はエンの遺伝子が原因だから。
「結局、最後まで勇気が出なかったわ。娘に嫌われるのは、やはり怖いもの」
動画の内容を知らない当時の私にも、博士の言葉がリンの寿命のことを指しているのは分かっていた。
おそらく博士はずっと悩んでいたのだろう。いつ、そのことをリンに伝えるべきかと。
博士はベッド脇のサイドテーブルに飾ってある写真を見ていた。
そこには私と博士、そして子供のリンが写っている。
リンは……笑っていた。
博士が亡くなってから見ることがなくなった満面の笑顔を顔一杯に湛えて――。
「――ケイ」
写真を眺めていた私は、呼ばれて博士のほうを向いた。
博士は既に写真ではなくこちらを見ていた。滅多に見せない真剣な表情を浮かべて。
「はい」
「あの子が寿命をまっとうして、自分に何か変化を感じたらB12研究室に行きなさい」
「変化とは」
「その時が来れば分かるわ」
その言葉には有無を言わさない響きがあった。
「――分かりました」
だから私は受け入れるしかなかった。変化が何を意味するのか分からなくとも。
私の返事を聞いて、博士は目もとを緩めた。そして私の頬に手を伸ばす。
……冷たい手だった。人の温もりを感じない、命の灯火を失いかけた手――。
「ごめんね」
「何故、謝罪されるのですか」
「それもいずれ分かるわ。でも、その時に私は生きていないから、受け止めてあげられないから」
博士は頬から手を離すと微笑んで言った。
「ケイ、今までありがとう。
それは穏やかで優しい、リンを見るような母親の微笑みだった。
……それが私が見た博士の――人間で言えば母とも呼べる人の、最後の夢だった。
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