最後の日
リンが二十一歳になった頃、汚染風による病は急激に彼女の身体を蝕んでいった。
ピピッ、ピピッ、ピピッ。
キッチンに備え付けられたアラームが時刻を告げた。
空中のディスプレイに表示された時刻は午前七時。
朝食の支度は終わっていないが問題はない。本当は支度する必要がないからだ。
「……行かなければ」
歩き出すと、自分の足が驚くほど重いことに気づく。
……これからのことは分かっている。でも、これは自分が望んだことだ。
ピッ、と小さな電子音と共に、寝室のドアがスライドした。
部屋に入ると、薄暗い室内が徐々に明るくなる。
足音を立てないよう気をつけながらベッドに近づく。
ベッドの上には、就寝時と変わらない直立で手を組んだ姿勢でリンが眠っている。
私はいつものように、屈んで声を掛けた。
「おはようございます。リン」
リンは瞼を開けると、いつものように右手を伸ばしてきた。
左頬に温かい感触――だが手の平から伝わる温度はいつもより高い。
リンは私の頬を撫でると、力なく微笑んで言った。
「……おはよう。ケイ」
微笑みと同じく力ない声だった。
最近のリンはベッドから起き上がれないぐらいに弱っていた。
それは汚染されることによりかかる汚染病の症状にしては明らかに異常だった。
そもそも汚染病というものは寿命は縮めても目に見えて身体を弱らせるものではない。どちらかというと最後まで苦痛なく逝くことができる、安楽死に近い類いの病だ。
そのことから私は最初、リンが弱っているのは他に原因があるからだと考えていた。何度も身体の隅々まで検査を行なった。しかしいくら調べようと汚染以外の異常を見つけることはできず、結局は元々短い寿命と相まってそうなってしまったのだろう、ぐらいの推測しかできなかった。
「おはようございます。熱がありますので今日もこのまま安静にしていて下さい」
ベッドの脇に置いている機器から、換えの点滴を取り出す。
「……ねぇケイ」
「はい」
平常心を保ちつつ、点滴を新しいものに差し替える。
「……私が死んだら……貴女はどうするの?」
「致命的な故障がない限りは、ここで稼働し続けるでしょう」
「……一人で?」
「そうですね」
「……寂しくは、ない?」
無意識に息が詰まる。
私は意識して小さく呼吸を繰り返すと言った。
「私は、普通のアンドロイドとは違います。感情プログラムは搭載されていません。なので、寂しいと感じることは、ありません」
「……そう。なら、それだけは……良かったのかもしれない……」
「それは、どういう意味でしょうか」
「だって……感情があったら……きっと孤独に押しつぶされてしまうもの……貴女が……独りで過ごす姿を想像して……こんなにも胸が苦しくなるのは……私に……感情が……心があるからだもの……」
リンの瞳から涙がこぼれ落ちた。
胸郭に圧迫感。人工心臓の稼働に乱れが生じ呼吸も不規則になる。
……駄目だ――まだ駄目だ。
「私には、よく理解できません」
あの時のように沈着で、静穏な声を出すよう心がける。
「なぜリンが自分のことではなく、他人、いえ、アンドロイドのことを考え、涙を流しているのか」
「……いつか……ケイにも分かるときが来るわ……」
いつものように、リンはそう口にした。
けれどそれは、これまでの確信に満ちた声音ではなかった。
まるでその日が来ないことを願っているような、酷く、悲しい声音。
……リンは分かっていたのだ。
心がある人だからこそ、心を持つことの辛さを。
心を持つということは、良いことばかりではないということを。
だから彼女は最後の時を前にして諦めた。
私に心が宿るという奇跡を、最後に願うことを止めてしまった。
その日が来てしまえば、私が苦しむことになると彼女は分かっていたから――。
気づけば私はリンに手を伸ばしていた。
親指で目尻から流れる涙を拭っていた。
……あの時も同じ行動はしていた。博士に『リンが泣いていたら涙を拭ってあげて』と言いつけられていたから。けれど今は違った。今の私の脳内には博士の言葉は一文字もなかった。完全に無意識で彼女の涙を拭っていた。
リンは私の手に意識を委ねるように目をつぶっていた。
やがて涙が止まり手を離そうとしたとき、彼女が引き留めるように手を重ねてきた。
「ケイ」
リンを見ると、彼女は力なく、けれど精一杯の笑顔を浮かべて言った。
「私が孤独に押しつぶされなかったのは……貴女が側にいてくれたお陰よ……ありがとう……」
喉の奥から熱がこみ上げてくる。
何も返すことが出来なかった私の手をリンは解放すると、いつも眠るときのように両手を胸の下で組んだ。
「少し……眠るね」
「……はい」
私は室内の光度を下げると、部屋の入口へと向かった。
入口の扉が開き外に出ようとしたとき、背中に言葉が、届いた。
「大好きよ……ケイ」
[B:ANDROID-YEN-02R PLAY END...]
リン型アンドロイドに埋め込まれた記憶の再生の終了が、網膜に表示される。
背後の扉が閉まったのと同時に、決壊するかのように堰き止めていた感情が一気に溢れだした。
全身を瞬く間に感情の波が駆け巡る。私はそれに耐えられず、思わず掻きむしるように自らの胸倉を掴んだ。食いしばった口からは嗚咽が漏れ、目からは液体がこぼれ落ちていく。
……あの日――リンが死んだ前日。
私はリンの命が翌朝まで持たないと理解していた。
だというのに私は朝になると、いつものように朝食の準備に取りかかっていた。
もう朝食は必要ないのだと、食べる人間はもういないのだと、理解しているのに私は手を止めることが出来なかった。
今思えば信じたくなかったのだ――リンが死んだと。
希望に縋っていたのだ――リンは目覚めると。
抽象的な思考回路――それは与えられた責務を遂行することを原則とするアンドロイドとしては明らかに異常な行動だった。
朝食の支度を終え、リンの寝室に入り、ベッドの彼女に声を掛けようとして、私はそこで初めて自分の異常性に気がついた。
リンは、
いつものように直立した姿勢で、
胸の下で手を組み、眠るように死んでいた。
気がつくと私は、彼女の亡骸の前で呆然と立っていた。
本当に人形になってしまったかのように、ただ立ち尽くしていた。
しかるべき行動を起こさない身体に、アンドロイドとしての思考が目の前の事実を伝えようとする。遺体が痛む前に、彼女の遺言に従って埋葬するのだと。
……そうだ。埋葬しなければ。
だが、与えられた責務は、すぐさま別の思考に上塗りされた。
リンは二度と私に「おはよう」と言うことはない。
リンは二度と私に笑いかけてくれることはない。
リンは二度と私に触れることはない。
リンは二度と私の名を呼ぶことはない。
二度と――――。
途端に身体の力が抜け、膝が崩れ落ちた。
リンの頬へ手を伸ばす。手の平には冷たさしか感じられない。
体温という、彼女の命が伝わってこない。
触れた手が震える。
目の奥が熱くなる。
胸に圧迫感を覚える。
喉の奥から何かが溢れ出す。
「あぁぁ…………リン……」
……私は壊れてしまったのだ。
だって、こんなにも目から液体が溢れるのだ。
だって、こんなにも胸が苦しいのだ。
だって、こんなにも喉の奥が焼け付くのだ。
私はきっと……壊れてしまったのだ――……。
『――ケイ、私は信じてる。いつかきっと貴女に心が宿ると』
――奇跡は為された
彼女の命と引き換えに――。
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