彼女の城
リンと私が生活するこの地下シェルターは、ドーム都市ノースニベルから百二十五キロほど離れた場所にある。
広大な敷地内に居住スペースと研究所、娯楽施設や食物生産フロアなどを有するこのシェルターはもともと科学者一族〈
その一族最後の人間から、遺産と共にシェルターを相続したのが博士――リンの母親だ。
一族に連なるものではない博士が何故、太陽の一族の技術の結晶であり故郷とも呼べるこのシェルターを譲られたのか、博士が亡くなった今となっては知る術はない。
ただ一つだけ分かっているのは、博士は一族最後の人間から研究を引き継ぎ、私を生みだしたことだけだった。
昼食の片付けを済ますと、時刻は十三時を回っていた。
準備したティーセットを持って図書館へと向かう。ダイニングキッチンからは歩いて二十秒。リンの寝室とは反対方向になる。
リンは、午後の時間を図書館で過ごすことが多い。
それは娯楽の類いが本しかないからではない。
ここが地下シェルターとはいえ、庭園、プール、映画館、アクアリウム、プラネタリウム、スポーツ施設など人間にとって楽しめる施設は大方揃っている。
それでもリンは、図書館を一番に好んだ。
幼少のころからずっと、図書館を自分の城としていた。
図書館に辿り着くと、扉はすでに明け放れていた。中に入り端的に辺りを見回す。図書館は二階構造で壁一面に書架が所狭しと埋め尽くされている。書架に納められているのはどれも今では貴重な紙本だ。全て太陽の一族が長い年月をかけて収集した遺物で、記録を遡ると二千年以上前のものも存在している。
ジャンルは歴史・科学・技術・芸術・言語・宗教などあらゆるものが揃っており、都市ネットワークのデーターにもここほどの希少価値のある書物はないだろう。だがリンは、この手の本を読むことはなかった。
リンの姿を確認できなかった私は、図書館の中央に配置されたソファ横のサイドテーブルにティーセットを置いてから奥の部屋へと向かう。
奥の部屋はリンの母親である博士がよく使っていた書斎だ。ここにいないということは、リンは必ずそこにいる。
案の定、開け放たれた書斎の扉の先に、書架を見上げるリンの姿を見つけた。
書斎に入ると、リンが私に気づいて顔をほころばせた。
「ケイ」
私の元に彼女が歩み寄ってくる。すると空気の流れと共に花の香りが鼻腔に届いた。
その香りが、隅に追いやっていた記憶を掘り起こす。
喉の奥に生まれた違和感から意識を逸らし、言うべきことを口に出した。
「香水、つけたんですね」
「うん。私も二十になったし、そろそろいいかなって」
何種類かの花のエキスを配合したこの香水は、博士が生前に愛用していたものだ。リンにとっては大好きな母親の香り。だからリンは残された一瓶を大事に母親の書斎に飾っていた。
以前、大事に取っておかなくてもシェルターの花で再度生成は可能だと伝えたが、それでは意味がないと言われてしまった。成分は全く同じなのに何故、再生成したら意味がなくなるのだろうと当時の私は不思議に思っていたのだが……今なら理解できる。
形見というものは、その人が生前に持っていたという事実があるからこそ成り立つものなのだ。
「どのくらい持つかな」
リンは香水の瓶を顔の高さまで上げ、覗き込むように見ている。
「毎日、使用して半年ほどです」
「それなら全然、使い切れそうね」
凪のような穏やかさでリンはそう言った。
その言葉の重さとは、裏腹に。
「さ、本を読みましょう」
リンに手を引かれ図書館中央のソファまで誘導される。
彼女は香水をティーセットの脇に置くと、自分より頭半分ほど高い私を見上げた。母親譲りの青い瞳が私に座るよう促している。促されるままソファに座ると、すぐにリンも隣に腰を下ろしてきた。そして私に寄りかかりながら手に持っていた本の表紙を開く。
本の中表紙には見慣れた文字が並んでいた。
《炎の聖女と
五百年以上前に書かれた太陽の一族を題材にしたとされる古い小説だ。
内容は聖女が世界と愛する騎士を救うために犠牲になり、不死の力を得たその騎士が世界を救い、生まれ変わった聖女と再び巡り会うという英雄譚と恋物語を混ぜたものだ。
リンはこのような物語を好んで読む。
その他のジャンルは全くと言っていいほど興味が無い。
昔から彼女の嗜好は偏り気味だ。
それは本に限ったことではなかった。
例えば飲み物。
リンは紅茶をオレンジティーしか飲まない。
最初は博士に出すように色んな味を出していたが『オレンジティーが好き』と宣言してからはそれだけしか飲まなくなった。
例えば朝食の目玉焼き。
人間は同じ味付けばかりだと飽きてしまうと料理マニュアルに記されていたので、毎日味付けを変えていたら『味付けが無いのが好き』と言われ、それ以降は味付けをしていない。
例えば外の世界。
彼女は外の世界に関心が無い。
それは情報を得る手段が無いからではない。
ここは太陽の一族が作り上げただけあって最先端の通信設備が整っている。
世界各国のドーム都市へのネットワークは常に繋がっており、最新のニュース・政治・経済・流行・情勢など、あらゆる情報にいつでもアクセス可能だ。
けれどリンはそれらを一切、見ようとはしなかった。
リンが成人――十六歳になった時、私は一度だけ尋ねたことがある。
外の世界で、人間が集まる都市で暮らしてみたいとは思わないのかと。
その時リンは、私に微笑みかけてこう言った。
『ケイがいるここが、私の世界の全てよ』
……リンは偏った嗜好を持っている。
多くの同族よりも、アンドロイド一人を選ぶのだから。
お喋り好きなリンも、本を読み始めると世界に入り込むのか一切喋らなくなる。
けれど時より、こちらを上目遣いで見上げると微笑むことがあった。すぐに本へと戻っていくので、その行動の意図を訊ねたことはない。
リンが本を読んでいる間、寄りかかられている私は身動きが取れない。
不自由な時間――――けれどもその時間を私は、嫌いではなかった……。
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