刻を呑む
井内 照子
一
青い朝。
曇硝子の格子は陽光に鈍色と透け、窓からは白い光が差し込む。
重たい脚、軋む腰、汗ばむ腋、熱っぽい額。乾いた瞼を開くと、いままで感じていた心地よさがよっぽど不快に思えてくる。粉っぽい口の中や胃液臭い鼻の奥、鼓動の度に押し寄せる頭痛と吐き気と悪寒に、昨晩酒を飲み過ぎたことを知る。
行かなくちゃ。
脳裏に赤いライトが灯る。その灯りに点く事務机の並ぶ仕事場の陰が脳裏を過り、身体を起こす。
反動で一気に立ち上がろうとすると膝が崩れ、尻餅をつく。
尻餅をついて、歳だ、情けないなあ。と思い、顎に手をやると僅かに延びた髭が手のひらを削る。顎の髭で遊びながら、枕元の目覚まし時計を見やると、土曜日の朝には早すぎることを知らせている。
今日は仕事がない。
焦りで冷めた酒がまた血管を巡り、二日酔いの症状が顔を出す。
昨日どれだけ呑んだのだろう。
呑んだ酒を思いだし勘定し、酒の風味、香り、色は思い出すのに、その間に口が話した話を一向に思いだせない。そもそも、だれかと話などしただろうか。頭が疼く。
よろけながら狭いユニットバスに備え付けられた便器に垂れる酒臭い小便に胃が迫り上り、胃液や唾液でつくられる酸っぱい吐き気を呑み込みながら陰茎を振り、尿管の中身を出し切ると、眠気が瞼を落そうとしていることに気がつく。
酒とは時間を殺すものなのだ。
休みになったら読もうと思っていた本は枕元に置かれたまま、読み手は鼾を掻きながら夢に落ちていく。
その酒飲みの夢はというと不毛である。
夢の中でもひたすらに酒を呑みつづけるように出来ている酒飲みという種族は、いつまでたっても現へは帰らない。いっそのこと夢の中であれば酒を呑んで呑んで、眠りもしなければ二日酔いにもならずに済むのだから、夢がいつまでも続けば良いと夢の中で思い始めたりもする。
再び目を覚ますと陽は高く上り、隣の部屋からは痴話喧嘩の軽快な音色が聞こえてくる。陽気なものだと、汚れた食器の積まれたシンクからグラスをつまみ出し、水で流し、気がつくと酒瓶を手にしている。
これがいけねぇんだ。と悪態を付き、すでにグラスにはなみなみ酒が注がれている。
秋田産の純米酒。最近は専ら安くて美味いこれに限る。
口元へ運ぶと、なんとも言えない甘い香りが胃をくすぐる。
くいと一つ呑み込むと、もうすっかり出来上がって、次には知らず知らず腹に酒が落ちていく。
肘の裏の血管がとくりとくりと脈を打ち、忘れられた時間がぽつりと佇んでいる。
倒れ込んだソファに呑み込まれた汗ばむ臀部がほとんど麻痺し、弛緩した四肢が不格好に投げ出されて延びている。
溜め池の水底から眺める風景のように澱み揺れる世界の中を曖昧な自我が漂い、窓から差し込む陽の光やその奥にある空は、どうあがいても、結句到底手の届かないものである気さえしてくる。
「おい。お前は生きているのか。それで生きているのか」
耳の奥で響く鼓動が、そう問いかける。
俺は生きている。
これで生きているのだ。
頭の奥で叫ぶと、虚しくて、息が詰まる。
息が詰り、吐き気が襲う。
便器に頭を突っ込み、呑んだばかりの酒と胃液のシェイクを吐き出す。
俺はこれでも生きているんだ。
強がりを吐くが身体の芯はナメクジのように柔らかくなり、こびり付いた便とアンモニアとカビの臭いの立ち籠める便器を枕に、重たい瞼が眠りを誘う。
ここでこのまま死んだとしても、俺の人生は大きく違わないのだと思うと、ますます眠たくなる。
眠気に逆らうように身体は起き上がり、またソファへ戻り、酒をグラスに注ぎ、煽る。
これではいけないのだ。
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