クルト(No.3)

ユザ

 たった今、僕は解雇処分を言い渡された。

「ごめんね、田中くん。うちも経営が大変になってきたんで仕方のないことなんだ。わかってくれるよね?」

 それほど大きな会社ではないし、給料が特別良いわけでもない勤め先を失うことに、ふと絶望感を抱いてしまったのは約八年間も勤務してきたという歴史があったからだろう。同じ環境に居続けたという意味ではこれまで最長だった小学生時代の六年間を抜いて歴代一位に躍り出ていた。

 かといって小学生の頃のように濃密な時間を過ごしていたかといえばそう断言はできないのだが、とにかく居心地の良かった場所をあまりにあっけなく失ってしまうのはそれなりに腹立たしさもあった。まるでコタツでくつろいでいたところを無理やり引っ張り出されたみたいにムカついた。

「これ、少ないけど退職金。田中くんは頑張ってくれてたから、うちとしてもいつも助かってたんだよ。本当にありがとうね。田中くんを受け入れてくれる会社は沢山あるはずだから、ここで気を落とさずに頑張ってね」

 八年間のうちに何度か飲みに連れて行ってくれた社長はずっと僕のことをいつもの「賢治けんじ」ではなく、他人行儀な「田中くん」と呼び続けていた。最後はそれくらい突き放した関係でいた方がいちいち気に病まないで済むのかもしれない。

 あくまで社員は契約書によって結ばれた雇用関係にしかない。社長の命令は絶対だ。たとえそれが理不尽であっても受け入れるのが当然だ──と、まるでそんな事実をたった今、突きつけられているようだった。

 確かに雇用を切っていく側はどれだけ無感情に、そして機械的に社員を切り捨てていけるかが重要なのかもしれない。そんな話を前に聞いたことがある。仮に僕が向こう側の立場になって考えた時、毎回毎回申し訳なさと居た堪れなさで心労を患っていてはいくつ心臓があっても足りないだろう。そのうちいつかは本当に胃に穴が開いてしまう可能性だってある。

 でも、僕は今、雇用を切られる側に立っている。胃に穴が開くくらいの代償はあなたも背負って下さいよ、とつい文句の一つくらい言ってしまいたくなる。今の僕には相手を気遣う余裕もこれまでの感謝を伝える誠実さもないのだ。

 それに社長は気付いているのだろうか、明後日に僕が31歳の誕生日を迎えるということを──

 僕は膝の上で拳を握りしめ、これまで雇ってくれた相手に感謝もなく、ただただ因縁をつけるように睨みつけることしかできなかった。

「退職日は今月末になる予定なんだけど、田中くんはまだ二週間分の有給休暇を消化できてないみたいだから明日まで出勤してきてもらって、で、それ以降は有給休暇ってことで処理するけどいいかな? ちなみに明日は退職の手続き以外は特段やってもらうこともないから、とりあえずはダンボールに荷物をまとめてもらうか、もしくは簡単な事務作業を手伝ってもらう時間になると思う。それでも大丈夫?」

「……ああ、はい。わかりました」

 僕はようやく声を発した。その第一声が反抗的な言葉じゃなかったことにおそらく社長も安堵したのだろう。強張っていた社長の顔がどことなく緩み、途端に話し方がいつも通りに戻った。

「そういえば賢治の好物はモツ煮込みだったよな? この前すっげえ旨いモツ煮込みを出してる店を見つけたから送別会はその店でやろうと思ってるんだ。問題ないだろ?」

「え、ああ、はい。そ、そうですね」

「おっけいおっけい。じゃあ、最後はパーっとやってお別れしちゃおうぜ。うちとしても寂しくなっちゃうけどよ、俺たちはお前がどこの会社に行っても応援してるから。なっ。期待してるぜ?」

「ありがとうございます。頑張ります……」

 この時ばかりは、苦笑いを浮かべて怒りを堪えられた自分自身を心の底から褒め称えた。

 僕は目の前に差し出されていた退職金の入った茶封筒を手に、社長室を退出し、『営業部』のプレートが天井から吊るされていた島に戻った。普段から使い慣れた自分専用のデスクの上には、いつの間にかダンボールが置かれているのが遠目に見えた。早く出て行ってくれ、とでも言いたいのだろうか。僕はその光景に、別に誰かに嫌われていた自覚なんてなかったが、そういえば別れを惜しんでくれるような同僚もいなかったことに今更気付かされたような気がした。八年も勤めていて会社に大した貢献もできていないのだ。仕方ないか……。

 席につくまでの間、社内のどこからも一切視線を感じないなんて逆に不自然のようにも思えた。もしかするとみんなが気を遣ってくれたのかもしれない。もしくは、できるだけ僕という負のオーラを纏った存在を意識外に置いておきたかったのかもしれない。一番辛いのは、僕がこの場から居なくなることに何の興味も示していない場合だった。

 ただ、どちらにせよ僕が肩身の狭いを思いをしなくちゃいけなかったことには、なんら変わりはなかった。両隣に座っていた社員ですらこちらを一瞥もしなかったのだ。あまりに静寂すぎて、呼吸するだけでも息を潜めてしまう。みんなはというと、普段は敬遠しがちな電話対応にも我先にと受話器を奪い合っていた。そんな彼らに囲まれていれば、僕という存在がとにかく敬遠されていたことに気付かないはずがなかった。

 僕はそんな異様な光景を横目に、さっき社長には明日でもいいとは言われたが、ただぼうっとこのまま定時を迎えるのもなんだか居心地が悪くて、とりあえずは用意されていたダンボールに荷物を詰め始めることにした──


「ただいま」

 僕は玄関の扉を開けると誰もいない部屋に向かって声を発した。もちろんその返答はない。僕は靴を乱雑に脱ぎ捨て、抱えていたダンボールを部屋の隅まで運んだ。いつもの癖で脱いだジャケットとスラックスパンツをそれぞれハンガーに掛け、ファブリーズをスプレーしようとしたところでふと気付く。明日はもう消臭する必要もなくなるんだな、と。僕は自然と家の近くにクリーニング店がなかったかどうかを頭の中で探していた。

「まあ、明日でいっか」

 やがて僕はそんな独り言を呟き、結局スプレーしなかった。

 台所のシンクで手洗いうがいを済ませ、トイレで用を足した。その順番を逆にした方が、トイレの後の手洗いの時間を省けるので効率がいいことくらいはわかっていたが、そのことを思い出すのは大体いつも手を洗ってしまった後だったため、毎回改善のしようがなかった。

 白いワイシャツに下着に丈の長い靴下という不恰好な姿でしばらく家の中を歩き回り──といってもたった四、五歩でUターンしなければいけないほど小さな部屋の中での話なのだが──ついさっきまで何かを考えていたような気がしてそれを思い出そうとしていた。しかし、結局はピンとくるものが浮かばないまま、全裸になってシャワーを浴びた。僕は嫌なことがあると毎回水温の設定温度を高くする。眠気を我慢するために太ももをつねるみたいなことと同じように、熱々のシャワーを浴びた痛みで嫌なことから目を逸らすのだ。それが荒療治だということはわかっているが、他のところに意識を追いやるためには最も簡単なやり方がそれだった。

 しかし、無職を言い渡された今日みたいな日にはそれでも物足りなかった。

 僕はシャワーの出力を最大にし、降りしきる豪雨のような音に紛れて腹の底から大声を出した。壁を殴り、握っていたシャワーヘッドを床に思い切り叩きつける。今にもどこかしらが破損してもおかしくはない激しい音が浴室に反響し、またそれに紛れて僕は叫んでいた。ここまでわかりやすく心が荒んでいたのはおそらく生まれて初めてのことだった。不意に冷静になった僕は、見たことのない僕の暴れように少しだけ怖くなってしまった。

 それからしばらくして浴室を出た僕は、社会人になってから一度も買い替えたことのない、フワフワという概念とは相反したようなガサガサなタオルで全身をくまなく拭き、肌をこれでもかと痛めつけた。これもさっきのシャワーと同じでふと湧き上がってくる怒りや情けなさを痛みで掻き消すのだ。

 その後、僕は二畳もない台所スペースで髪の毛を乾かし、四畳半の和室で全裸のまま仰向けに寝転がった。拭き足りていなかった背中の水滴を畳が吸い込むと、大袈裟だが、人としてやっちゃいけないことをしたような罪悪感が容赦なく僕を襲ってきた。それは子供の頃に刷り込まれていた親のしつけのせいだったのかもしれない。やがて上体を起こし、押入れを開けてようやく僕は服を着た。

 そのついでに僕は今日のうちに会社から持ち帰っていたダンボールの中身を整理し、今後使いそうにない物はゴミ袋へ、緊急性はないけど今後どこかで使う可能性があるかもしれない物は押入れの中に仕舞い込んだ。

 その途中で押入れの中からあるものを見つけた。何故それを実家から持ってきていたのかは全く覚えていない。しかし、そのあまりの懐かしさに僕は一時的に嫌なことを一切忘れ、今となっては輝いていた少年時代にタイムスリップできたような気がしていた。

 確かそのカードゲームを僕は中学生の頃に始め、結局高校二年生くらいまで続けていた記憶があった。

 デュエル・マスターズ──その固有名詞を聞いてピンとくる人はほとんどが同世代の男子勢だろう。当時は遊戯王ゆうぎおうカードと並んでどちらも全国の少年たちの間で爆発的人気を誇っていたが、僕が通っていた中学校では圧倒的にデュエル・マスターズの方が流行っていたため、僕はその波にあやかってデュエル・マスターズのデュエリスト(カードゲームプレイヤーの呼称)になることを選んでいた。

 昔はよくお小遣いをもらうたびにコンビニやヴィレッジヴァンガードに赴いてカードパックを買っていたなあ、と当時の高揚感を思い出しながら、僕は押入れの中に潜んでいたデュエル・マスターズカードを一枚一枚眺めていた。カードのレア度は確か下からコモン、アンコモン、レア、ベリーレア、スーパーレアに分類され、ベリーレアとスーパーレアに関してはカードの表面にホログラム加工が施されていてキラキラと光っていた。

 そして僕はそのカードの束の中に、ふと一枚の最弱カードを見つけた。

 予言者クルト──

 そのカードは一般的に1000単位でパワーが決められているデュエル・マスターズにおいて、唯一パワーが500しかないクリーチャー(キャラクター)であり、おそらくは記憶上最もパワーの低いカードだった。かといって、特殊能力があるわけでもない。ただ、一つだけ、このカードで長所となりうる特徴を挙げるとすれば、それは盤上に召喚するコストが最も低いという点だろう。

 つまり、それは将棋で言う歩兵のような役割をしていた。いとも簡単に相手に食われてしまうし、逆に相手を食うほどの力は持っていないが、その手軽さ故に切り込み隊長としては多くのデュエリストたちから重宝されていたのだ。

 しかし、大抵の場合このカードが重宝されるのは序盤のみで、たった一体のみでは盤面を変えられる力もないクルトは、時間が経てば経つほどその役割は失われていき、大事な局面ではほとんど役に立たなかった。

 もちろん歩兵がと金に成ることがあるように、クルトもスーパーレアのクリーチャー(キャラクター)に進化することが稀にあったのだが、クルトの場合はほとんど見たことがない。なにせ、パワーが最弱のクルトは、大抵の場合、進化するより先に死んでしまうことがほとんどで、序盤に切り込み隊長としての役目をまっとうすると、いつの間にか殉職じゅんしょくしているというのがいつものオチだった。

 それに加え、手駒として活用できる将棋の歩兵とは違って、デュエマではルール上、一度墓地に送られてしまうとそう簡単に復活できない。しかも、歩兵は最初から盤上に9枚並んでいるが、デュエマは同じカードをデッキに4枚しか入れられないという縛りもある。

 つまり、クルトの場合は歩兵よりも、より一層の捨て駒感が否めなかった。

 盤上に居続ける限りは進化の見込みがあるかもしれないが、力のない者はいとも簡単に盤上から振り落とされてしまう──

 それはある種、自分も同じように思えた。

 僕は手元にあるキラキラしていないカードに目を落としながら、ふと同情していた。

 いくらでも替えはきく。たった一人で局面を打開できるほどの力量がない。居ればそれなりに役に立つかもしれないが別に居なくても困らない──

 たぶん、僕が会社を切られてしまったのもそんなことが理由だろう。薄々気付いてはいたけど、決して認めたくはなかった事実。いざその現実を目の前に突きつけられてしまうと、歯痒さと情けなさと腹立たしさでどうにかなってしまいそうだった。

 絵に描いたような四畳半に暮らしていた僕は今日、人生の路頭に迷ってしまったのかもしれない──

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