謝琰2  フラグ

孝武帝こうぶていの治世末頃、内号としては護軍将軍ごぐんしょうぐん、外号としては右将軍うしょうぐんとなった。司馬道子しばどうし謝琰しゃえんを司馬として迎えたが、将軍号は据え置かれた。王恭おうきょうの挙兵時に謝琰に仮節かせつを与え、前鋒軍を指揮させた。王恭が平定されると、衛将軍えいしょうぐん徐州刺史じょしゅうしし、仮節となった。


司馬道子・元顕げんけん親子の圧政に怒った孫恩そんおんが決起すると、謝琰は督呉興とくごこう義興ぎこう二郡軍事にぐんぐんじに任じられ、制圧に向かった。義興では五斗米道軍の統帥のひとり許允之きょいんしを討伐、城より退避していた魏隠ぎいんを迎えて郡治に復帰させた。さらに呉興でも丘尪

を打ち破る。


この勢いに乗る形で、と詔勅が下り、劉牢之りゅうろうしと合流、孫恩を追撃することとなった。このため孫恩は海に浮かぶ島に逃げ延びる。朝廷は孫恩を引き続き脅威と見なし、謝琰を会稽内史かいけいないし都督ととく五郡軍事ごぐんぐんじに任じた。将軍号等については、やはりすべて据え置きである。


会稽と言えば謝安が長らく生活拠点としていた地である。そんな謝安の息子として名の通っていた謝琰が会稽エリアに鎮守したのであれば、もはや東方よりの攻撃を恐れることはない、と話し合う者がいた。


とは言え謝琰が郡に到着してみると、地元民を慰撫しようとするそぶりも見せない。それでいて防備を固めようとするそぶりも見せなかった。配下将らは謝琰に対し、諫言をなす。


「恐るべき賊が海にあり、こちらの動静をうかがっておる以上、いま将軍は仁政をお敷きになり、奴めが降伏を願い出てくるよう計らうべきではございませぬか」


謝琰は答える。


「苻堅は百万の軍を、むざむざ淮南まで殺しに送り出したではないか! 孫恩なぞ大敗の上、島に引っ込んだのだぞ。どうして再び出てこれようというのだ。それに、奴がもし出てきたとして、なぜ天がわざわざ国賊を養わねばならんのだ。すみやかにそなたらに殲滅させ、それで終いよ」


このため謝琰が孫恩軍への慰撫をすることはなかった。




太元末,為護軍將軍,加右將軍。會稽王道子以為司馬,右將軍如故。王恭舉兵,假琰節,都督前鋒軍事。恭平,遷衛將軍、徐州刺史、假節。孫恩作亂,加督吳興、義興二郡軍事,討恩。至義興,斬賊許允之,迎太守魏鄢還郡。進討吳興賊丘尪,破之。又詔琰與輔國將軍劉牢之俱討孫恩。恩逃於海島,朝廷憂之,以琰為會稽內史、都督五郡軍事,本官並如故。琰既以資望鎮越土,議者謂無復東顧之虞。及至郡,無綏撫之能,而不為武備。將帥皆諫曰:「強賊在海,伺人形便,宜振揚仁風,開其自新之路。」琰曰:「苻堅百萬,尚送死淮南,況孫恩奔衄歸海,何能復出!若其復至,正是天不養國賊,令速就戮耳。」遂不從其言。


(晋書79-10)




うんまぁこのひと謝万ですわね。謝万も才能はあったけど末端の気持ちがわからないひとでした。謝琰の場合、軍同士の戦いでその才覚は生きるんだろうけど、民衆反乱鎮圧向けではなかったのでしょうね。「苦しめられてるから決起した」って観点がすっぽり抜け落ちてそう。やば……。




■斠注


會稽內史、都督五郡軍事

廿二史攷異にじゅうにしこうい』二十二には「五郡者會稽新安東海臨海永嘉也。」とあります。謝琰が任じられた都督する領域が會稽・新安しんあん東海とうかい臨海りんかい永嘉えいかだった、と言うことですね。これ東海郡ってたぶん僑郡よね。琅邪ろうや僑郡が建康の北東におかれてたりとかしたけど、まぁたぶんひとつの郡あたりで一箇所、とかって話でもないんでしょうね。つまり実態が全然見える気がしません。どうも史書読んでると当時の人間ですらまともに実態把握できてなかったんじゃないのとも思うし、相当戸籍管理めちゃくちゃだったんだろうなあ。

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