王愉斠注 王慧龍
というわけで、今回は
『
王愉が
『
王愉は
第何男なのかはわからない。
『
王慧龍は
『
魏書王慧龍伝を
この点について、
「太原晉陽人の自称については、王慧龍の玄孫たる
と。更に魏収のものした魏書にはこのような内容もある。
「北魏に亡命した
この内容は、おそらく王松年が罪を得たことにより誣告の意味で追加されたのだろう。しかしこの記事が載るよりも前の箇所で、王慧龍が僧彬とともに
王慧龍の節度を保ち志を曲げずにいたことを感情に任せて汚すとは、まったく魏收の
晉書は王愉伝の後に子孫十人あまりが処刑されたとのみ書き、その姓名を載せない。その後に王綏伝をもうけ、荊州刺史となるも王愉のあれこれに連座し、弟の
さて、王愉伝では王愉の処刑が、
これを踏まえれば「ひそかに乱を起こさんと企んだ」なる記述は、劉裕による誣告と見るべきであり、事実には当たるまい。これは晋書の著述ミスである。
王愉,義煕初在中庭行,帽忽自脫,仍乘空如人所著。及愉母喪,月朝上祭酒,器在几上,須臾下地,覆還登牀。尋而第三兒綏懷貳伏誅。唐宰相世系表十二中作愉生緝,散騎常侍。案緝未知爲愉第幾子。魏書王慧龍傳曰:慧龍自云太原晉陽人,司馬德宗尙書僕射愉之孫,散騎常侍緝之子。越縵堂日記曰:校魏書王慧龍傳,兼校北史、晉書、宋書,慧龍之爲太原王愉孫,蓋無可疑。觀其生一男一女,遂絕房室,布衣蔬食,不參吉事,且作祭伍子胥文以寄意,及臨歾乞葬河內之言,此豈假託貴門,一時苟且者乃魏收系之曰:自云太原晉陽人,旣爲其元孫松年所訴,復激怒時主,鞭配松年。今傳云魯宗之子軌歸國,云慧龍是王愉家豎僧彬所通生,蓋又松年被罪後誣加之詞。其前旣云慧龍與僧彬北詣襄陽,魯宗之資給慧龍,送之渡江,假使非眞,何必資送。其後又云慧龍卒後,吏人將士於墓所起佛寺,圖慧龍及僧彬象讚之。前後矛盾,不符已甚。其爲醜詆無稽可知。夫以慧龍志節如斯,而任情汚衊,收之穢史,誠可惡也。北史盡削此等語,可稱卓識。至晉書王愉傳後,但云子孫十餘人皆伏法,不載姓名。其後有愉子綏傳,云拜荊州刺史,坐父愉事,與弟納竝被誅。而慧龍父散騎常侍緝之名不見。又愉傳言愉之誅,以潛結司州刺史溫詳謀作亂。而宋書武帝紀言綏以高祖起自布衣,甚相淩忽,又以桓氏甥,有自疑之志,遂被誅。又王諶謂其兄謐亦曰王駒無罪而誅,此是翦除勝己,以絕人望。駒,愉小字也。是潛結謀亂之言,亦劉裕所誣,非其實事,此皆晉書之疏也。
お、おう……これは越縵堂日記の立場をきっちり把握しとかないとまずいやつ……「感情に任せてけなした」って書くやつこそが感情的な批判をしてくるのは、火を見るより明らかなわけで……。
しかしここ読んで思いましたが、宋書って劉裕が桓玄を倒したとき、東晋貴族らは「自分たちが桓玄を倒せなかったことに恥じ入った」と書かれるんですよね。これをそのまま受け入れたら「以降劉裕の発言に逆らえなくなった」となるんですが、ならなんで劉裕がその後えっちらおっちら功績積み上げなきゃいけなかったんでしょうか。しかも全部がプロレスと言うには、あまりにも
とはいえここ、
まぁなんというか、この辺は予断をいだきつつも、変に確定をさせずに引き続き史書を眺めていきましょう、と思いました。
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