王愉斠注 王慧龍

というわけで、今回は王愉おうゆ伝に載るくっそ分厚い注をまるまる拾う回である。


太平御覽たいへいぎょらん』八百八十五が引く異苑いえんでは。

王愉が桓玄かんげん敗走直後頃中庭に立っていたらいきなり帽子が脱げ、まるで空行く人が被ってしまったかのような挙動をしたのだそうだ。また母の月頭の服喪祭祀にあたり、テーブルの上に乗せていた祭器が地面に落ちたと思いきや、ひょいとテーブルの上に戻ってきた。間もなくして王愉は三男の王綏おうすいとともに謀反を企んだかどで処刑された。


唐宰相とうさいしょう世系表せいけいひょう』十二では。

王愉は散騎常侍さんきじょうじとなった王緝おういを産んだ。

第何男なのかはわからない。


魏書ぎしょ王慧龍おうけいりゅう伝にはこうある。

王慧龍は太原郡たいげんぐん晉陽県しんようけん人を自称しており、司馬德宗しばとくそう尙書僕射しょうしょぼくしゃ王愉の孫、散騎常侍王緝の子である、と。


越縵堂日記えつまんどうにっき』にはこうある。

魏書王慧龍伝を北史ほくし晉書しんしょ宋書そうしょと引き合わせて校勘するに、王慧龍が王愉の孫であることは疑う必要もなさそうである。一男一女をもうけるもその子孫を太原王氏としての系譜に組み込もうともさせず、粗衣粗食を貫き、吉事に参加せず、伍子胥ごししょを祀る文にその意思を寄せ、河內に葬ってほしい、と言い残したことなどをあわせてみると、貴門であるふりをしたなどと、どうして言えるだろうか。

この点について、魏収ぎしゅうは述べている。

「太原晉陽人の自称については、王慧龍の玄孫たる王松年おうしょうねんが訴え出、時の皇帝を激怒させ、むち打ちにされたことが記録に残っている」

と。更に魏収のものした魏書にはこのような内容もある。

「北魏に亡命した魯宗之ろそうしの子の魯軌ろきが南に帰国するにあたり、王慧龍は王愉の家に寄寓していた僧彬そうひんが密通した結果生まれた子である、と語ったそうである」

この内容は、おそらく王松年が罪を得たことにより誣告の意味で追加されたのだろう。しかしこの記事が載るよりも前の箇所で、王慧龍が僧彬とともに襄陽じょうように亡命したとき、魯宗之ろそうしが王慧龍に物資を与えて送り出している。もし王慧龍の家門が詐称であれば、どうして魯宗之がそこまでの援助をする必要があるのか。また王慧龍の死後、官吏や将、兵たちがその墓所周辺を造成し、寺院を興している。これは王慧龍や僧彬を讃えるためではないのか。前後の矛盾が甚だしきことこの上ない。その誣告の醜悪ぶりときたら筆舌に尽くしがたい。

王慧龍の節度を保ち志を曲げずにいたことを感情に任せて汚すとは、まったく魏收の穢史えしを憎むよりほかないのである。北史はこうした辺りの話を削除している。卓見と申し上げるべきであろう。

晉書は王愉伝の後に子孫十人あまりが処刑されたとのみ書き、その姓名を載せない。その後に王綏伝をもうけ、荊州刺史となるも王愉のあれこれに連座し、弟の王納おうとうとともに処刑された、とのみ書く。ここに王慧龍の父たる「散騎常侍の王緝」なる名は見えない。

さて、王愉伝では王愉の処刑が、司州刺史ししゅうしし溫詳おんしょうとともに乱をなそうとしたためである、と語られる。しかし宋書そうしょ武帝紀ぶていきでは、王綏が劉裕の低い身分からのし上がるに当たり対立していたとか、桓氏かんしの姻戚であったことから疑われるのが間違いないと思っており、ついには殺された、と書かれている。更には琅琊王氏の王諶おうしんは兄の王謐おうひつに「王愉殿は罪なくして殺されました、これは奴が声望が自らに勝るものを取り除かんと企んでいるのです」と語っている。

これを踏まえれば「ひそかに乱を起こさんと企んだ」なる記述は、劉裕による誣告と見るべきであり、事実には当たるまい。これは晋書の著述ミスである。



 

王愉,義煕初在中庭行,帽忽自脫,仍乘空如人所著。及愉母喪,月朝上祭酒,器在几上,須臾下地,覆還登牀。尋而第三兒綏懷貳伏誅。唐宰相世系表十二中作愉生緝,散騎常侍。案緝未知爲愉第幾子。魏書王慧龍傳曰:慧龍自云太原晉陽人,司馬德宗尙書僕射愉之孫,散騎常侍緝之子。越縵堂日記曰:校魏書王慧龍傳,兼校北史、晉書、宋書,慧龍之爲太原王愉孫,蓋無可疑。觀其生一男一女,遂絕房室,布衣蔬食,不參吉事,且作祭伍子胥文以寄意,及臨歾乞葬河內之言,此豈假託貴門,一時苟且者乃魏收系之曰:自云太原晉陽人,旣爲其元孫松年所訴,復激怒時主,鞭配松年。今傳云魯宗之子軌歸國,云慧龍是王愉家豎僧彬所通生,蓋又松年被罪後誣加之詞。其前旣云慧龍與僧彬北詣襄陽,魯宗之資給慧龍,送之渡江,假使非眞,何必資送。其後又云慧龍卒後,吏人將士於墓所起佛寺,圖慧龍及僧彬象讚之。前後矛盾,不符已甚。其爲醜詆無稽可知。夫以慧龍志節如斯,而任情汚衊,收之穢史,誠可惡也。北史盡削此等語,可稱卓識。至晉書王愉傳後,但云子孫十餘人皆伏法,不載姓名。其後有愉子綏傳,云拜荊州刺史,坐父愉事,與弟納竝被誅。而慧龍父散騎常侍緝之名不見。又愉傳言愉之誅,以潛結司州刺史溫詳謀作亂。而宋書武帝紀言綏以高祖起自布衣,甚相淩忽,又以桓氏甥,有自疑之志,遂被誅。又王諶謂其兄謐亦曰王駒無罪而誅,此是翦除勝己,以絕人望。駒,愉小字也。是潛結謀亂之言,亦劉裕所誣,非其實事,此皆晉書之疏也。




お、おう……これは越縵堂日記の立場をきっちり把握しとかないとまずいやつ……「感情に任せてけなした」って書くやつこそが感情的な批判をしてくるのは、火を見るより明らかなわけで……。


しかしここ読んで思いましたが、宋書って劉裕が桓玄を倒したとき、東晋貴族らは「自分たちが桓玄を倒せなかったことに恥じ入った」と書かれるんですよね。これをそのまま受け入れたら「以降劉裕の発言に逆らえなくなった」となるんですが、ならなんで劉裕がその後えっちらおっちら功績積み上げなきゃいけなかったんでしょうか。しかも全部がプロレスと言うには、あまりにも南燕なんえん盧循ろじゅんも際どい。そしたら「いうて桓玄打倒直後の劉裕に思ったほどの大権はなかった」としたほうがいいでしょう。桓玄打倒直後に劉裕が皇帝になるための道筋を確定させた、と語るのは、あまりにも事後孔明に過ぎはしないか、と思えてならない。


とはいえここ、安帝あんていの詔勅からすれば「皇帝の許可も得ず軍事作戦を起こすとか本来だったらどアウトにもほどがあるけど、功績パネェので承認せざるを得ない」とも語られてるのですよね。ともなれば、それこそ「大佐」レベルでしかなかった劉裕が超越的な権限を得るのもありえなくもない。


まぁなんというか、この辺は予断をいだきつつも、変に確定をさせずに引き続き史書を眺めていきましょう、と思いました。

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