第二章 第二話 ~ 一週間 ~
戦いの後でそのまま寝た所為か……目覚めは最悪だった。
これ以上指の一本たりとも動かせそうにない絶望的な疲労こそ癒えていたものの、身体中は筋肉痛によりガタガタ、顔や手足の皮膚は固まった血で引きつっている。
身体中汗臭いどころか、返り血や臓物の臭気が全身から漂っている上に、それらを拭わずに一晩が経過した所為で、全身が痒くてたまらない。
その挙句、鎧を着たまま丸まって寝た所為で、身体中が妙に窮屈で重苦しい。
「くそっ」
まだ身体の芯に疲労が残っていて、二度寝への誘惑に駆られた俺だったが……それでも全身のあらゆるところから立ち上る不快感と、何も食わずに寝た所為か腹が減り過ぎて痛みを訴えてくる所為で、正直、もう眠れそうにない。
仕方なく俺は、眠気と疲労を振り切って身体を無理やり動かし、起きることにした。
「……ててて」
そんな、起き上がるという動作たった一つで、身体中の筋肉という筋肉が全て悲鳴を上げているのが分かる。
……非常に情けない話だが、完璧に筋肉痛だった。
鍛えてもない人間が血に酔った所為とは言えあれだけ暴れ回ったのだから、当然と言えば当然の話ではある。
俺は飢えと渇きに突き動かされるまま、悲鳴を上げ続ける身体を何とか動かし、与えられた部屋を出る。
「お目覚めですか、我らが主よ」
恐らく、俺が起きるのを待っていたのだろう。
寝室から出た俺にそう傅くのは、山羊の頭蓋骨を被った人影だった。
「……ちっ。
その陰気な面が出迎えか」
「ははっ。
手厳しいですな、我らが神よ」
こんな状況に巻き込まれた怒りに加え、起きたての不機嫌さも手伝って俺はそう嫌味を口にしてみるものの……面の皮まで山羊の頭蓋骨で覆われているようなこの男には、嫌味など全く通じやしない。
「それよりも、さっさと……」
「それよりも、我が主らよ。
食事をご用意させておりますが」
さっさと元の世界へ返せ……と俺が口を開きかけたのを察したのか、それともただの偶然か。
黒衣の神官であるチェルダーにそう機先を制されてしまい、俺はつい言葉を飲み込んでしまう。
飲み込んだ言葉を吐き出すべきか否か、俺は数秒ほど悩んでいたものの……
「……食わせてもらおう」
記憶にある限り最も過酷な飢餓を訴えてくる胃からの要望には抗えず、俺はそんな言葉と共に食欲に屈する道を選んだのだった。
「さぁ、どうぞ。
我らが主よ」
黒衣の神官に案内された先にあったのは床に並べられた、とても豪勢とは言えそうもない粗末な食事だった。
鹿か何かの毛皮の上に木で出来た皿があり、その上に干し肉や干した果物、ついでに萎びた野菜らしきものが申し訳程度に並んでいるだけであり……俺はそれらを目の当たりにした時、コレが食事だとは思えなかった。
そんな数多の皿の中、一番豪華な銀に輝く深皿の中には水が並々と入っている。
それらのひどく貧しい食料品の周囲を黒衣の神官たちが立ち並んで警護している様は、どう見ても食事というよりはヤバい宗教団体の行事としか思えなかった。
俺はその異様な空気に若干の気後れをしたものの……今の絶望的な空腹には抗えそうにない。
「……まぁ、食えば同じか」
俺はそう呟きながら、上座と言うか神座と言うか、案内された先にある床に敷かれていた毛皮に腰を下ろすと……空腹に操られるがまま近くの干し肉を手に取り、何気なく口へと運ぶ。
そして、その干し肉が舌へと触れた瞬間、その肉だと思い込んでいた物質を思わず噴き出していた。
「なんじゃこりゃああああああ!」
美味いとか不味い以前に、ただひたすらに辛い。
──何しろ、塩の味しかしないのだ。
しかも、硬くて噛み切れない上に、濃厚な塩の所為で噛んでも肉の旨味なんて欠片も感じられない挙句……腐敗寸前だろう牛肉の臭みが鼻孔の奥へと突き刺さる始末である。
現代日本の牛肉を……和牛は高いので縁がなかったが、オージー産でもアメリカ産でも、兎に角現代日本で売られている牛肉を一度でも口にしたことのある人間にとって、それは海辺に落ちていたサンダルの底レベルの食材でしかなかったのだ。
「ほ、他のは……」
口の中が塩辛いものの、空腹には敵わない。
何とかその牛肉らしきものを胃の中へと放り込んだ俺は、近くの干した果物……でかいスモモっぽいものを口に運ぶと……
──ブルータス、お前もか。
その余りの塩辛さに顔を歪める。
少しだけ予想していたお蔭で噴き出すほどではなかったものの、口が裂けてもコレが美味しいとは……いや、並んでいる品の全てがとても食料とは言い難い。
俺はその黒くて丸い塩の塊を必死に飲み込むと、口の中の塩辛さを追いやるために、水の器を掴み一口で飲み干す。
その水も、生ぬるく皮臭くぬめりがあって、美味しいとは口が裂けても言えない代物だった。
「……ったく。
何なんだよ、こりゃ」
「お、お口に合いません、でしたか?」
「と言うか、コレ、食い物か?」
「……ええ。
我々に残されている最後の食糧でございます」
何も考えずに呟いた俺の素直な感想は、予期せず辛辣なものとなってしまったようだったが……チェルダーは動揺することなく淡々とした口調でそう答えていた。
──ああ。
──そう言えば、こいつら敗戦中だったっけか。
確か太平洋戦争中も、末期の日本にはろくな食糧がなかったと聞くくらいだから、民族玉砕寸前の有様となっているサーズ族にはもう真っ当な食事すら残されていないのだろうと容易に想像がつく。
塩漬けなのは、腐らさないように保存するためか。
……言われてみれば、日本も昔は、海の近く以外では干した塩漬けの魚しか食べられなかったとか。
戦場は一面塩の荒野だったのを考えると、サーズ族も、彼らと敵対しているべリア族も、塩だけは余りまくっているようだった。
──そう考えると冷蔵庫って偉大だよな。
こうして電気の恩恵も受けられない世界にきてようやく、俺は文明の利器の偉大さを思い知っていた。
まぁ、そんな現実逃避は兎も角として……現代日本で肥えた舌を持つ俺には、こんな
「取りあえず、水っ腹で我慢するか。
おい、水の追加を」
「ありません」
「……は?」
代替案として何気なく口にした俺の当然の要求は、そんな怒気を孕んだチェルダーの言葉に遮られていた。
その声が珍しく怒りを含んだものだったことと、飲み水すらないという言葉が信じられず、俺は思わず聞き返す。
「ですから……先ほどの水が限界なのです、我らが神よ」
「……おいおい。
いくら何でも……冗談だろう?」
「先ほどの水でも、我々の一日分割り当てられた量の三倍はあるのです」
静かに発せられたチェルダーのその言葉は、もう怒りを宿してはいなかった。
だからこそ、彼の言葉が……たかが蛇口をひねるだけで幾らでも出てくる筈の、水がないという信じられないこの状況が、冗談でも何でもないことを、俺は嫌が応でも理解してしまう。
「なら、風呂は?」
「……風呂、とは?」
「沸かした湯に肩まで浸かって、身体を洗う、んだが」
「そんな冒涜的な行為が、この世に存在するのですか?」
戦場の残滓がもたらす全身の不快感に、俺は風呂という言葉をつい口にしたのだが……チェルダーに真顔でそう返されてしまった以上、俺はそれ以上の要望を口にすることは躊躇われていた。
──ただ、一つだけ分かったことがある。
突然、理由も分からず連れてこられたこの世界は、戦争の所為で人がバタバタ死んでいき、食事もろくになく、水さえもまともに飲めない地獄のようなところであり。
冷蔵庫を開ければ何かしら食べ物があり、蛇口を開けば水は幾らでも出てくる……そんな現代社会のぬるま湯に慣れた俺にとっては、どうしようもないほど暮らし難い場所だということだ。
「……せ」
「……は?
如何なされましたか、我らが主よ?」
「だからっ!
俺を元の世界に返してくれ!」
その事実を理解した瞬間、俺が切実にそう叫んだのも無理もないことだろう。
……だって、この世界は「ゲームも漫画もテレビもない」なんてファンタジーお約束の悩み以前に、真っ当な食事も風呂も水さえも、そして幾ら魔法の鎧と戦斧があるとは言え、明日の命の保証すらもないのだ。
ただの平凡な学生でしかない俺が、こんな地獄の中でなんて、生きていける筈がない。
……だけど。
「……無理です、我らが主よ」
黒衣の神官の返事は、俺の当然の望みを潰えさせる、そんな冷徹な一言だった。
「てめぇっ!
俺は、帰せと言ってるんだ!」
その言葉に激高した俺は、気付けばチェルダーの胸ぐらを掴んで持ち上げていた。
神官の身体はまるで資源ごみ袋を持ち上げるかのように軽く、彼の食生活が如何に貧しいのか心配になるほどだった。
だが、今は自分の生活が第一で、この似非神官の健康を心配している余裕などありはしない。
俺は殺気と怒気を剥き出しにしたまま、黒衣の神官を視線だけで殺さんとばかりに睨みつける。
「……ですから、出来ないことは出来ないのです、我らが神よ」
それでも……彼の返事は変わらなかった。
「ふざ、けるな、よ」
「ふざけてなど……。
ただ、神ならざる我らには限界があるのです。
召喚の儀は七日間の時間を要しました。
送還の儀にも同様の時間が必要でしょう」
「……そん、な」
「ふぎゃっ」
……一週間は帰れない。
その事実を前に、俺は呆然と立ち尽くしていた。
水も電気も食糧もない、戦争の真最中のこんな世界で一週間も生きていかなければならないのだ。
手から滑り落ちた黒衣の神官が情けない悲鳴を上げていたが……今の俺は自分のことで精いっぱいで、そんなことに構っていられる余裕などある筈もなく。
「やってられるかよっ!」
俺は黒衣の神官どもに期待することを放棄してそう叫ぶと……焦りと恐怖とに突き動かされるまま神殿を飛び出していた。
そして、神殿の前に立ち並んでいたテント群へと飛び込むと、それらを手当たり次第に開きまくる。
「うわぁあああああっ、たす、助けっ?」
「な、ななな何かっ、ご、ご用でしょうかっ?」
「ひっひっひっぃっ?」
「こんな地獄のような世界で一週間も帰れない」という事実に追い詰められていた俺は、よほど凄まじい顔をしていたのだろう。
テントに顔を突っ込む度に、中の人たちが脅え慌てふためき悲鳴を上げ……中には頭を垂れて俺に祈りを捧げ始めるアホまでいる始末である。
──だけど、そんな些事なんざ、気にしちゃいられない。
絶滅寸前のサーズ族に僅かに残された、夫婦の団欒も親子の生活も怪我人の療養も何もかもを叩き壊しつつ、俺は一つのテントを探して走り回る。
「……いやがった!」
「うぉっ!
な、何だっ!」
そして、見知った顔の巨漢……バベルのテントをようやく見つけ出す。
見つけ出したのは良いのだが、非常に間が悪いことに、バベルは全裸の女性と抱き合っていた。
彼女がこの巨漢の女房か愛人かなど俺には判断のしようもないが……まぁこの世界の婚姻関係がどういう形で成立しているのかなんて、俺にとってはどうでも良い。
しかし、『真っ最中』だったにもかかわらず、バベルは俺が顔を出した途端、女を放り捨てて近くの大鉈を手に取っていて……その動作を見ただけで、この巨漢はサーズ族最強の名に恥じない生粋の戦士なのだと理解できる。
──分かるのだが……はっきり言って間が悪いことこの上ない。
普段の俺だったら、正直、こんな場面に出くわしてしまったのなら、居心地の悪さに慌て、瞬時に踵を返していただろう。
だけど、今の俺は全裸のおっさんにも全裸の女にも目を奪われないほどに追い詰められていた。
「……少し、聞きたいことがあってな」
「分かった。
……が、まぁ、少し待て。
服くらい着させろ」
ただ、そこまで追い詰められている俺でも……全裸でイチモツを放り出したままの筋肉質の巨漢と向かい合える根性もなければ、またそんな趣味がある訳でもなく。
俺はその提案に少し歯噛みしたものの……結局は首を縦に振ったのだった。
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