行き止まりのその先

仁寿

行き止まりのその先

 プロローグ

 自分の頭が熟れたザクロのように弾け散る感覚。私の体の隅々の、およそ生きている間に触ることも叶わないような脳漿が飛び散る感覚。あなたは知っている?

 ゆっくりと進む時間の中で、自分の体がアスファルトの上に潰れ死んでいるヤモリのように四肢が飛び散る感覚。あなたは分かる?

 鉄の車輪が私の肉片の隅々の細胞をすり潰し、それが摩擦によって香ばしい匂いを上げるあの紫煙。ペースト状になった私から沸き立つように上がる蒸気。あなたは感じる?

 あなたはいつも感じない。いつかのバケツの水の冷たさも、油性ペンのインキの匂いも、足元から匂い立つ生ごみの匂いも。あなたは覚えていない。私はあなたに弓を引いた。


 カレンダーを捲るのが怖かった。31日を跨ぐその数字は、私にとっては死刑宣告も同じだった。

 私は、カレンダーは捲らない。でも時間は無情にも過ぎていった。

 開けた窓から夏風の名残が部屋に入ってくる。そしてその生暖かい風は、カレンダーの日捲りを僅かに動かした。でも、私が飛ぶのには、その僅かで十分だった。


 最後に聴いたのは、甲高いシャッター音に、低く揺らす轟音。人々の息を呑む声。遠巻きに絶叫。そして嘲笑だった…。



 陰1

 少し強い夏風が窓のサッシに当たって空鳴っている。カタカタ、カタカタ。私はそのラトルの音で目を覚ました。私は薄っすらと瞼を開けて、息を漏らした。すると、僅かに声帯を震わせて寝覚めの呻き声をあげた。

 ぼやけた視界の中、そこは私の通っていた教室のように見えた。黒板の片隅に書かれた日直の名前の上にはハートの書かれた傘が、電池が切れて放置されている壁掛け時計が、そして教室後方にはレールから外れかけている引き戸。全てが夏休み前の光景だった。

 「私、なんでここに」

 一人ごちるが、薄暗い教室の中に答えてくれる人はいない。

 そこで私は自分の席に座っていて、夜の教室に一人居残っていたことに気が付いた。

 頭をあげて辺りをきょろきょろと見まわす。しかし、本当に誰も居ない。普通誰も居ない夜の学校なんて気味が悪いって思うかもしれないけど、私はなんだか妙に心地の良い感じをした。喧噪のない教室、慟哭のない一角、私にはそれが…、そう、平和に写った。

 スカートを膝裏の輪郭に沿って撫でつける。そして音を立てながら椅子を引き、立ち上がった。


 陽1

 夏なんだから、やっぱり肝試しでしょ!ってことでやってきました、ここ我が校に!これまで近場に有名な肝試しスポットなんてなかったから全然アガらなかったけど、いや~、人生何が起こるか分かったもんじゃないよね。

 私たちはいつもの茂み裏のフェンスの穴から学校に潜入、そして~、華麗にエキセントリックに突入するのだ!

 肝試しのなかで幽霊がホントにいるのかどうかはそこまで重要じゃない。私たちがそこでキャーキャー言って、楽しく抱き着いて、そして…。

 やることは遊園地のお化け屋敷と完全にいっしょ。私たちはいっつも楽しむ側。

 今回も楽しませてね!えっと、名前は…。なんだっけね?


 陰2

 私はとぼとぼと歩き始めた。人が居ない教室っていうのは意外と広いものなんだなと漠然とした感想を抱きながら、教室の前方の引き戸に手を掛ける。

 そこは延と闇が続く廊下だった。まるで“しん”という音が鳴りそうなほどに静まり返ったその廊下を、私は一人で歩き出す。

 足の裏に違和感を覚える。私は腰の高さの流しに腰を掛けて上履きの裏を覗き見た。すると、そこには無数の頭の潰れた画鋲が刺さっていた。

 私は驚いて、思わず上履きを手放した。ポスッという間の抜けた音をあげて床に落ちた上履きは、何かを彷彿とさせる感じがした。でも、一体何が。

 そのとき、突然猛烈な頭痛が私を襲った。痛い、なんてものじゃない。まるで頭蓋骨が砕け、その破片が脳の至る所で痛みの閃光を誘発させ、そして目の裏で火花が散るかのような、そんな激痛だった。

 私はよろめき、フックの付いた壁に手を付ける。頭に手を当てようとするが、頭部の全体が痛いからか、どこを抑えていいか分からない。

 私は頭を両腕で覆うようにして歩き出した。左肩を壁に擦りつけながら、ずるずると音を立てながら。自分の呻き声を残しながら、歩き始めた。


 陽2

 廃墟ってラップ音がするって言うじゃん?あれって水分や熱によって建材が小さく伸び縮みするからなるんだってね。

 でもさ、こんなコンクリート造りの学校でラップ音っていうか、変な音?なんて聞こえるもんなのかな。日中に居る時は聞こえたことのない変な音がずっとどこからか鳴っているんだよね。

 でもでもさ!雰囲気あってマジでアガるっていうか、みんなでキャーキャー言うのマジ楽しい!

 七不思議とかこの学校になくってマジ最悪だったけど、あいつも学校に爪痕を残せた感じでめっちゃロックだと思わない?!

 ホント、がんばってよね。


 陰3

 薄暗い洞穴のような行き止まりに入った。その中はみんな“トイレ”と呼んでいるけど、私にとっては只の行き止まりでしかない。

 獲物が追い詰められて、追い詰められて、追い詰められて。最後の一歩手前に行き着く場所。

 洗面台に寄りかかり、蛇口に手を掛ける。そして手に力を入れて捻ろうとするが、手の筋肉が弛緩しているからなのか全く回る気配がない。

 私は尚のこと力を入れて、蛇口を捻ろうとする。だが、やはり一切の動きも見せない。

 私は思わず鏡に目を移すが、水垢がこびり付いているのかぼやけた像しか結ばない。私は「なんで掃除をしていないの!」と叫びたくなるが、噛み締めた奥歯を緩めた途端にどうにかなってしまいそうな気がして、その叫びを奥底に留めた。

 そして私はその場に座り込んでしまった。

 いつもと同じように、行き止まりの汚い床に、座り込んだ。


 陽3

 なにこれ。あいつの幽霊がいるんなら教室が大穴じゃね?と思って教室の前に来てみたら、なんか落ちてるんだけど。この薄汚くて見た目だけでも臭いって分かる上履きって…。

 ロッカーからモップを持ってきて、柄の部分でツンツンしてみたらさ、やっぱりあいつの上履きじゃん!

 なにこれ、ウケる!もしかしてっていうか、絶対にあいつの幽霊いるよね!これってそういうことだよね!あっは!マジでウケるんだけど!ならさ、みんなであいつの幽霊探してみない?きっとあいつも喜ぶよ!泣いて喜ぶよ!あっはッ!


 陰4

 弾ける視界に劈くような耳鳴りの裏で跫音(きょうおん)が響いてきた。何人もの軽快な足音が私が先ほどまで居たはずの教室の前で足踏みしている。それと同時にけたたましい笑い声も聞こえてきた。

 私はその瞬間、全身の皮が鳥肌になり、手のひらには洪水のように汗が溜まり、暖かな息が小刻みに漏れ始めた。

 手足が自分のものではないかのように震えだし、思うように動かない。洗面台に手を伸ばして起き上がろうとするが、力の入り方がおかしな方向に行ってしまったらしく、地面に打ち捨てられた爬虫類のように仰向けに倒れてしまった。

 ただ倒れたにしてはおかしな方向に歪んだ手足の感覚を感じながら、目線だけは行き止まりの入り口の奥、跫音と笑い声が響いている場所に向けられていた。

 私は体を引きずりながら、少しずつ動き始めた。歪んだ手足の方向を僅かに矯正し、なんとか膝立ちと這う態勢の中間を保ちながら、私は動き始めた。


 陽5

 教室に入ってみたけど、全然なんていうこともなかったかな。いっつもの小汚い教室だね。別にあいつの姿は…、見えないかな?

 これじゃ夜の教室をただ眺めているだけのつまんない会になっちゃうよ。う~んどうしようかな…。

 …ん?今、廊下の奥の方で何か物音が鳴った?私たちは今みんな教室にいるから、つまりこれってあいつの物音じゃね!


 陰6

 ようやく行き止まりから這いずり出た私は、少しずつ足に力を入れてみた。すると、よたよた、といった感じにゆっくりと歩くことができた。壁に手を付けながら、重く引きずるような頭を抱えつつ、私は廊下に躍り出た。

 そして、そこには…。


 陽6

 そこには…。うっわ!ホントにいたよ、あいつ。ていうかキモ。なにあの見た目。マジキショいんだけど。うわ~、みじめだなぁ。元からキモかったうえにこんな見た目になるなんて何て言うか、めっちゃ、かわいそう!

 いやぁ~マジかわいそうだわ!かわいそう記念に写真でもとってあげようかな?みんなスマホだして!ハイッ、チーズ!…。とれたとれた?うっわ~、マジでとれてるよ、ウケる。

 ホントあんたってみじめだよね。こんなになってもまだ私たちに辱められてるんだからね。ほんっと、悲惨だわ。


 陰7

 不意に焚かれるシャッター。その眩しさは、私には馴染み深いもので、私の人生の汚点を物語っている眩しさだった。

 私は手で目を覆う。手の影の奥、そのシャッターの光の先、そこに映っていたシルエットは…。

 あぁぁ…。


 陽7

 ねぇ!みんなあいつ逃げたよ!何あいつ、追いかけっこしたいの?マジウケるんだけど、そんな歳じゃないでしょ!でも~、あっちがあんなにヤル気満々ならぁ~こっちも受けて立つのもヤブサカでもないかな。

 みんなあいつをとっ捕まえて晒しておやり!これがホントの晒し首ってね。なんちゃって。


 陰8

 あいつらの嘲笑が残響みたいに頭に響いてくる。元々激しかった頭痛の脈動に呼応するかのように、嘲笑が傷跡を深くした。

 私は走る。いや、走っていたのだろうか。もはや自分でもそれは定かではなかった。ただ、動く体の部位を可能な限り動かしていただけで、じたばたと藻掻いているに過ぎないのかもしれない。

 動き、四肢をしならせる。動き、重心がブレる。

 廊下の最奥、階段がらせん状に伸びている壁に、私は強かに強打した。

 ぐちゃ。

 気色の悪い音が響き、同時に生臭い血の匂いを香り立たせる。

 いやだ、捕まりたくない。

 どこか、遠いところに。


 陽8

 うぇ。いやぁ、今のは対象年齢成人だわ。あんな状況なのに壁にぶつかるんだね、気持ち悪いことこの上ないわ。

 そのまま階段の下に降りていったけど、あいつあのままどこに行くんだろう。


 陰9

 平坦な道でさえも上手く走れなかったのに、階段なんて無事に降りられるわけがなかった。半ば肉ダルマのように転がり落ちた私は、踊り場の奥に据え置かれていた姿見にぶつかった。

 ぐちょ。

 普通聴かないような衝突音が響くが、私はただあいつらに捕まらないように必死に動くことしかできない。

 姿見に赤黒い何かがべっとりと付いていたが、麻痺した思考ではそれがなんであるのかを理解することは叶わず、同時にその奥にいるはずの私の姿がどのようになっているのかについても考える余地は残されていなかった。

 張り付いた赤黒い何かから僅かに生暖かい蒸気があがり、それが髪にもへばりつく。束になった髪が、固くなって揺れていた。


 陰10

 そして、私は。


 陰11

 いつもと、変わりなく。


 陰12

 恐ろしい、現実から。


 陰13

 逃げて、にげて。


 陰14

 いつの間にか、私は校舎外に出て、駅に続く坂をゆっくりと下っていた。いつもの通学路であるこの道は、しかし、夜ということもあり物静かで落ち着いた雰囲気だった。

 遠くから踏切のシャッター音が響いている。等間隔に鳴る機械音。その音に引き付けられていくようにして足が動いていく。

 逃げて、逃げて、逃げて、逃げて。その行き着く先は行き止まりではない。あんな暗く、じめじめとした、薄汚い場所ではない。

 私は夏風の元に晒されていたい。学校が始まる焦燥感と、永遠にこの時間が続けばいいのにと祈る敬虔さ。それが常に身を焦がしてくれる場所。夏の日差しの余熱によって熱せられたそのレールの上、私は身を投げ出す。

 僅かな無重力感の後、私を受け入れてくれるささやかな衝撃。近づいてくるヘッドライト。そして、あぁ、嘲笑。


 陽9

 幽霊なんて捕まえられるものじゃなさそうだし、見失わない程度に後姿を追いかけていくとさ、あいつ学校外にでてやんの。

 いや、学校の外に出られんのかい!ってツッコミたくなったわ。呪縛霊ってその土地から出られないもんじゃないの?ちょっと意味わかんない。でもまぁ、面白いからヨシってことでOK!


 陽10

 もしかしてあいつ、あそこに行くんじゃね?方向的にあそこしかないでしょ!じゃあまたあれが見られるんじゃねぇの?!


 陽11

 やっぱあいつ、あそこに行くつもりだ!

 何考えてるんだろうな、あいつ。そう何度も何度も死にたいもんなのかね?

 まぁ、こうやって追い詰めるのも最後?なのかもしれないし、しっかり追いかけてやるとしますか!


 陽12

 駅の中に入っていったぞ!やっぱりあいつまたやる気だ!流石に見るのが2回目となると耐性がつくってもんよ!こっちの準備はばっちし!あとはあそこに立って、踏み出すだけだぜ。


 陽13

 立った、立った!ついでに電車も来たみたいだぜ。おい!お前が行けって。

 …。わあったよ、また俺がやるから、ちょっと待っててくれや。


 陽14

 電車が通過するほんの少し前、俺は奴の背中を少し、ほんの少しだけ押した。ほんと、トンッってくらいよ。

 そしてあいつの影はホームの下に落っこちていった。丁度、あのときのようにな。

 今度はあいつ、後ずさりしなかったみたいだな。9月の初登校日、あいつがホームに飛び降りるって賭けていたのによ、あいつ寸でのところで思いとどまってやんの。

だからさ、俺は今と同じようにちょっと小突いてやったのよ。

 今でも覚えているぜ、あいつの落ちる寸前の驚愕!って感じの目、俺の方に伸ばした手、そして一瞬言った「えっ」って声。本当にわらけるぜ。

 この世知辛い世の中から逃がしてやったのよ。俺たち、優しいと思わね?逃げていた奴を逃がした俺らって善人じゃね?

 人殺しておいてそれはねぇか。


 陰1

 少し強い夏風が窓のサッシに当たって空鳴っている。カタカタ、カタカタ。私はそのラトルの音で目を覚ました。私は薄っすらと瞼を開けて、息を漏らした。すると、僅かに声帯を震わせて寝覚めの呻き声をあげた。

 ぼやけた視界の中、そこは私の通っていた教室のように見えた。黒板の片隅に書かれた日直の名前の上にはハートの書かれた傘が、電池が切れて放置されている壁掛け時計が、そして教室後方にはレールから外れかけている引き戸。全てが夏休み前の光景だった。

 「私、なんでここに」


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