人垂らし悪役令嬢は、乙女ゲー世界を生き抜く。
長谷川さん
レミア・フィリップは頭をぶつける
プロローグ
そんな輝かしい家族に囲まれて、私は静かに日々を過ごすことに慣れていた。庭園の片隅で本を読むことが好きだったし、パーティーの隅で紅茶を静かに啜ることにも不満はなかった。
輝きすぎる光の中で、自分の輪郭がぼやけていくような感覚はやはり気分が悪く。なんとか下がいることを確認してその輪郭を確かめていた。
それが、私にとって居心地の良いだった。
ただ、頭をぶつけるまでは。
それは思いもよらない形で訪れた。
手元の本に気を取られ、足を滑らせたのだ。
間抜けだとは思う。
だが、実際にあの硬い大理石の床に後頭部をぶつけた瞬間、そんな感想すら霞んでしまった。
その瞬間、現実という名の布がずるりと剥がされ、裏側に隠れていた何かが覗き込んできたのだ。
気がつくと、私は知らない天井を見つめていた。高い天井には幾何学模様の彫刻が施され、どことなく異国の寺院を思わせる。周りの空気も妙に甘ったるく、現実から隔たった匂いがする。それは私の知っている現実の匂いではなかった。
「お目覚めになりましたか、レミア様」
声がした。柔らかくも冷ややかな響きのその声に、私は無意識に反応した。顔を向けると、黒い服を着たメイドが一礼していた。その目には奇妙な敬意が宿っていた。
レミア? 誰のことだ? 私の名前は御園沙織だ。それは昨日まで確かだった。だが、そのとき脳の奥底で何かが弾けた。
私が知っている御園沙織は、現実の世界に置き去りにされた。ここにいるのは乙女ゲーとしてかの有名なアカシック・エンブリオの悪役令嬢、レミア・フィリップ。記憶の奥に断片的な情報が浮かび上がる。
貴族の娘、傲慢で冷徹な性格、そしてありとあらゆるエンドにおいての悲惨な結末。
どうやら私は、物語の中の人間らしい。しかも悪役の。
頭をぶつけるだけで、こんなにも世界が変わるなんて。
−−
メイドから渡されたカップの目覚めの…紅茶?らしきものを口に含めて混乱する思考を落ち着かせる。
頭の中には二つの記憶が交じり合っていた。
一つは、御園沙織という普通の高校生としてのものだ。朝、眠い目をこすりながら制服に着替え、急いで家を出て、いつもぎゅうぎゅうの電車に揺られる。
駅前のコンビニで友達と買う肉まんの匂い、授業中に窓の外を眺めながらぼんやり考える「今日の放課後はどこで道草を食べよう」なんていう他愛ないこと。
昼休みになると親友たちと机を寄せて食べる弁当、部活帰りの部室の埃っぽい空気。そんな、どこにでもある日常が、今もはっきりとした手触りで私の中に残っている。
でも、もう一つの記憶――レミア・フィリップという異世界の貴族令嬢としての記憶が、それに重なっていた。艶のある黒髪の巻き髪を揺らしながら鏡を覗き込むときに感じる自己陶酔。
重厚な絨毯の上を歩く足音のリズム。
誰かに命令を下すときの、相手を見下ろすような冷たい視線。
広間に響く靴音と、人々のざわめき。そのどれもが、まるで私自身が体験したことのように頭の中を埋め尽くしていく。
どちらが本当の私なのか分からなかった。沙織としての記憶をひとつ引っ張り出すたびに、それと対をなすようにレミアとしての記憶が波のように押し寄せてくる。
そして、それらは驚くほど自然に混ざり合おうとしていた。
たとえば、放課後の部活。仲間たちと試合後にハイタッチをしたときの手の熱さ。頑張った後に飲むスポーツドリンクの甘さ。沙織としてそれを知っている私は確かに存在しているはずだ。でも、その感覚にかぶさるように、レミアが庭園で感じた濃厚な紅茶の香りや、金のスプーンを持つ指先の繊細な感触が、私の中で同じくらい鮮やかに浮かび上がる。
「私は……どっちなんだろう?」
声に出してみると、それが紛れもなくレミアの声だったことに気づいて、驚いた。澄んでいて柔らかいけれど、どこか冷たく、沙織の声にあった軽やかさがまったくない。それが、妙に怖かった。
記憶を整理しようとした。ひとつずつ丁寧に。「これは沙織のもの、これはレミアのもの」と分けていけば、自分がどちらの存在なのか分かるかもしれない。そう思ったけれど、それは思った以上に難しい作業だった。
たとえば、レミアとしての記憶にある舞踏会のドレスの重み。こんなもの、沙織が経験したことは一度もないはずだ。それなのに、なぜかその手触りを私の指先が覚えている。そして、沙織としての私は、クラスメートと笑い合いながら購買部のパンを取り合ったあの瞬間を確かに覚えている。それもまた、私の中で確かだった。
二つの記憶が、少しずつ溶け合っていく。それはまるで、インクが水にじわじわと染み込んでいくようで、どこからどこまでが自分なのかが分からなくなる感覚だった。そして、その先に待っているもの――それはまだ何も見えていない。
メイドの視線が気になったのは、その思考の途中だった。
「レミア様、本日の夕食はダイニングにご用意しておりますが……お召し上がりになりますか?」
声は穏やかで丁寧だが、その奥に微かな違和感があった。まるで私の顔に、何か見慣れないものを見つけたかのような。
「ええ……ありがとう」
私はぎこちなく答えた。どう返すべきか分からず、とりあえず言葉を口にしただけだった。でも、その言葉にメイドが小さく目を見開いたのが分かった。
「……失礼ですが、レミア様、少々お顔色が優れないようにお見受けします。体調はいかがでしょう?」
「問題ないわ。ただ少し疲れているだけ」
そんな言葉が自然と口をついて出た。御園沙織――いや、レミア・フィリップとしての記憶がどこかでそう言うべきだと指示している気がした。けれど、メイドの表情は明らかに曇っていた。
「かしこまりました。では、お父上様にご様子をお伝えして参りますので、しばらくお待ちくださいませ」
彼女は一礼すると、部屋を出ていった。その足音が消えるのを確認した瞬間、緊張が解け、手のひらがじっとりと汗ばんでいるのに気づく。
「……私、何なの……?」
改めて部屋を見回す。どこもかしこも贅を尽くした装飾品で埋め尽くされていた。壁に掛けられた大きな油絵、金の縁取りが施された鏡、ベッドの天蓋の繊細な刺繍。そのすべてが、自分の日常とは無縁のものだった。だけど、それと同時に、どこか懐かしさのようなものも感じる。
そのとき、記憶の底からある言葉が浮かび上がってきた。
「……アシック・エンブリオ」
高校生の私――沙織としての記憶の中で、それは確かに存在していた。去年の冬休み、友達に勧められて始めた乙女ゲーム。ゴシックファンタジーの世界観と、重厚なストーリーで一時期夢中になっていた。そこには、確かにレミア・フィリップという悪役令嬢が登場していたはずだ。
その容姿は、艶のある黒髪を縦ロールにしている魅惑的な女性。
私は目を閉じ、必死に記憶を辿った。
そうだ、レミア・フィリップは主人公の敵だった。
高慢で冷酷で、そして最後には悲惨な結末を迎える運命にある存在。それが、この体に宿る私だということを、徐々に理解し始めていた。
「……本当にゲームの中の、あのレミアなの?」
頭の中に浮かぶゲームの記憶が、目の前の現実と一致していく感覚があった。セレスティアが暮らす屋敷、メイドたち、そしてこの部屋。それはすべて、ゲームの中で幾度も見た風景だった。
あのゲームには、攻略対象が5人いて全員の全ルートをこの眼に記憶したのだから間違いがない。
でも、どうして?なぜ私が彼女になっているの?
その答えはまだ見つからなかった。ただ一つ確かなのは、この世界が「アカシックエンブリオ」の中であること。そして、私はその悪役令嬢であるということだ。
胸の奥に冷たいものが広がるのを感じた。この先に待つ運命を思うと、冷静でいられる自信がなかった。
メイドの戻る足音が廊下に響き始めた。その音を聞きながら、私は静かに深呼吸をした。冷静に、冷静に。
---
その日の夕食は、どこか妙な空気に包まれていた。
広い食卓には、父と母、兄、そして私の四人が座っていた。豪華な料理がいくつも並べられているが、それに手をつける気になれない。ただ、スープをひと口すするたびに、銀のスプーンが皿に当たる微かな音が響いた。
「……レミア、今日はずいぶんおとなしいようだな」
父がふと口を開いた。彼はこの家の主らしく、落ち着いた低い声で私に話しかける。しかし、その目にはわずかな警戒の色が浮かんでいた。
「はい、少し考え事をしていただけです」
自然な返事をしたつもりだったが、その場の空気はさらにぎこちないものになった。母は視線を皿に落としたまま、何も言わない。兄は珍しいものを見るような目で私をちらりと見たあと、再び黙々とフォークを動かしていた。
レミア・フィリップ――この体の持ち主――は、いつもこんな風ではなかったのだろう。傲慢で、家族に対しても横柄な態度を取っていたのだろう。だからこそ、今日の私の言動に彼らは戸惑っているのだ。それが分かると、胸の奥が少しずつ冷たくなっていった。
夕食が終わると、私は一言断って席を立った。誰も引き止めることはなかった。
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書斎に入ったとき、心の中に小さな安堵感が生まれた。広い屋敷の中で、唯一ここだけが自分の考えを整理できる場所に思えたからだ。
この場所は、ゲームでヒロインが多々あってフィリップ家に潜入調査した際に訪れた場所だ。
ゲーム上でフィリップ家のマップもあったのでその通りに屋敷を進むとやはりあった。
そして、やはりこの世界はゲームの世界であると再認識させられた。
壁一面に並ぶ本棚は圧倒的で、私はその一角に目を留めた。「フィリップ家年代記」と書かれた一冊が、他の本より少しだけ目立つように置かれている。それを手に取り、近くの机に運んだ。
ページをめくるたびに、フィリップ家の栄光と責務が文章として目の前に現れていく。この家は4大貴族の一つとして、帝国の北方を守護する役目を代々担ってきた。北方領土は過酷な環境にあるが、その先には帝国を脅かす蛮族の存在がある。この地を守ることは、フィリップ家の使命であり誇りだった。
しかし、私――レミアは、その歴史の中で異質な存在だ。この家の名誉を汚し、最後には悲惨な結末を迎える運命を持つ者。ゲーム「アカシック・エンブリオ」の中で知っているその運命が、じわじわと現実として迫っている気がした。
「このままだとマズイ。」
思わず呟いた声が書斎に響いた。フィリップ家の歴史に刻まれた責任と誇りを、この手で守らなければならない。そして同時に、レミアという存在がたどる運命を変える必要がある。
どうすればいいのか?私は机に肘をつき、頭を抱えた。北方領土の防衛に関わることで家族の信頼を取り戻すべきだろうか。それとも、もっと別の方法で自分の価値を証明するべきなのか?
砂時計を手に取り、その中の砂が静かに落ちていく様子を眺めた。時間は無情に進む。だからこそ、私も動き始めなければならない。
「運命なんてものが本当にあるなら、それに逆らってみせる」
そう心の中で決意したとき、最後の一粒の砂が落ちた。それが、私の新しい人生の始まりを告げる音のように思えた。
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翌日の朝、私は庭の練兵場に立っていた。
そこは屋敷の敷地の片隅にあり、武術の訓練が行われる場所だ。木製の人形や剣が整然と並んでいるその光景は、かつての私――沙織には縁遠いものだったが、今やここが必要不可欠な場所に思えた。
私がこの場所を訪れたのは、兄――ガウェインに会うためだった。彼はフィリップ家の嫡男であり、若くしてその武芸の才を高く評価されている。ゲームの中では彼も攻略対象の一人だ。彼女の兄として描かれていたが、レミアとはあまり折り合いが良くなかったはずだ。彼とヒロインが結ばれるEndでは私が最後に蛮族の国に嫁がされるシナリオがあり、ゲームの中でもレミアがまだ助かってる部類に入る。
ガウェインは庭の片隅で剣の素振りをしていた。その動きは洗練されていて、まるで一つの芸術作品のようだった。私はその様子をしばらく眺めていたが、意を決して声をかけた。
「ガウェイン兄様、お願いがあります」
その言葉に彼は手を止め、こちらを振り返った。彼の表情は驚きに満ちていた。
「レミア?お前が私に『お願い』とは珍しいな。何を企んでいる?」
疑いの色を隠さない目で私を見る。その視線に一瞬たじろいだが、私は何とか気持ちを奮い立たせた。
「私に……剣を教えてください」
ガウェインは目を見開き、そして一瞬間を置いて笑い出した。その声は大きく、庭中に響いた。
「冗談だろう?昨日までのレミアは、剣どころか庭の散歩すら億劫がっていたのに!」
「本気です」
私は静かに言った。その言葉に、彼は笑いを止めた。そしてこちらに歩み寄り、私の顔をじっと覗き込む。
何故、剣技を請う流れになったのか…。
理由はいつくかある。
1つ目は、ゲーム上に置いてレミア・フィリップは魔術を使えないのだ。
あの家で唯一魔術適性がない。そのために彼女は疎まれた時期があった。その時にラスボスである闇の魔術士によって闇の魔術を取引で手に入れ、さらに横暴を極めたことでヒロインと攻略対象たちとの戦いに発展し最後は敗れて…。
だからこそ、魔術としての見込みがないのなら他で補って行かなければならない。
私は、そこまで頭は良くないから政務とかでやるのは無理だろう。でも、沙織の記憶の中には剣道をしていていた記憶がある。
何より、剣が出来れば…騎士団に入ることが出来る。
この世界では、戦争は起きないこともないが基本的に貴族が最前線で戦うことはない。所謂、後方支援に回されて優雅に過ごせるはずだ。
やることとしても王都の警備での見回り。
うん、殉職とかとんでもないことが起きない限り大丈夫。
「どうしたんだ?お前、頭でも打ったのか?」
「……」
言葉が詰まった。どう説明すればいいのか分からない。でも、このままでは彼に真意を伝えられない。私は深呼吸をして、言葉を選びながら話し始めた。
「……以前、ちょっと怪我をして思ったんです。自分の身を守れるのは自分しかいないって。そのためには、強くならなければいけないんだって」
その言葉を口にしたとき、ガウェインの目に何かが浮かんだ。それは驚きとも、感動ともつかない感情の色だった。
「……レミア、お前……」
彼は何か言おうとしたが、言葉にならなかった。そして、次の瞬間、突然私を強く抱きしめた。
「本当に……本当に成長したんだな!妹がこんなことを言う日が来るなんて……嬉しいよ……!」
彼の声が震えているのが分かった。驚いて顔を上げると、彼の目には涙が浮かんでいた。
「あ、兄様、泣いてるんですか……?」
「当たり前だろう!可愛い妹がこんな立派なことを言うんだぞ!兄としてこれ以上嬉しいことはない!」
その瞬間、私は少し後悔した。どうやら兄様は相当に重いシスコンだったようだ。最後まで、悪役令嬢として鬼畜の限りを尽くしたのに最後は蛮族の家に嫁がせていたのはこういうところだったかもしれない。
「えっと……その……とりあえず剣を教えてくれるんですよね?」
「もちろんだとも!」
彼は満面の笑みを浮かべて私を放した。私はその表情に圧倒されながらも、少しだけ引いた気持ちを覚えていた。でも、これで一歩前進した。これから始まる訓練がどれほど大変なものになるのかは分からないけれど、私はその先にある未来を変えるために進むしかないのだ。
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