第一章3 ミーナ救出作戦
「待ってルナ!」
ほとんど反射的に駆け出したルナだったが、それを上回る速さでステラがその手を掴んで止めた。
母は娘の行動を完全に先読みしていた。
「だって、だってミーナが!」
「わかってる。でも、無闇に飛び出したらルナも帰ってこれなくなるでしょ」
「でも、早くしないと!」
人体に有害でないという保証はない――さっきの言葉がルナの頭から離れない。
「さっきの声聞いたでしょ? 少なくとも、今は元気そうだった」
落ち着かせようと冷静な声で諭すステラだが、ルナはますますヒートアップする。
「今はでしょ? ずっといたら危ないかもしれない! それに知ってるでしょ、ミーナがすぐ無理すること!」
以前、ミーナは配信の後に倒れたことがあった。
来る前から熱があったのに、無理をして悪化したのだ。
さっきの「何ともないよ」は、そのときと同じに聞こえた。
「私が行ってあげないと……だって私、ミーナの相棒だもん!」
『待って!』
ステラの腕を振り払って駆け出そうとしたルナを引き留めたのは、他でもないミーナの声だった。
『待って……私、本当に大丈夫だから。そりゃ、真っ暗で何も見えなくて怖いのはそうだけど。体は本当に何ともないよ』
「でも、放っておけないよ。こんな真っ暗な中で一人っきりなんて……」
ルナはもう一度窓の外を見て、身を震わせた。
――外にいるのが私だったら、怖くてどうにかなっちゃうよ。
「ミーナちゃん、今どの辺りにいるかわかる? うちかミーナちゃんの家、どっちが近いかな」
横から入ってきたステラの声に『えーっと』と間を置いてミーナが答える。
『ルナの家だと思います。学校の角を曲がったところだったので』
そこはルナの家から歩いて3分くらいのところだが――
「って、逆方向じゃん!」
『アハハ、デザート食べて帰ろうと思って……』
「ってなると、やっぱりうちに連れてくるのが一番だね。学校の設備もたかが知れてるし……」
オンライン授業のほうが多いシェルター外の学校は、設備に投資できる予算がかなり渋い。
ガーデン家はフィーバスの職業柄もあり、そこらへんの公共施設以上に万全の住環境だ。
たしかに言うとおりだが、
「え……今、連れてくるって……」
「私は待ってとは言ったけど、行くなとは言ってないよ」
窺うような視線を投げたルナに、ステラは苦笑した。
「私だって当然、ミーナちゃんのことは心配してるんだから。ちゃんと準備を整えたら、二人で助けに行こう」
「……いいの? 私も行って」
「止めたって聞かないでしょ。なら、手の届くところにいてくれたほうが安心だよ」
「お母さん……」
敵わないな、とルナは思う。同時に、ありがとう、とも。
「ってわけでミーナちゃん、そこで動かず待っててもらえる? 迎えに行くから」
『そんな大丈夫ですよー! 歩き慣れた道ですし、何も見えなくたって帰れます』
「ダメ」
なおも言い張るミーナに、ステラはにべもない。
「今ミーナちゃんの目の前に、人を食べるモンスターがいるかもしれないんだよ?」
『へ?』
ステラの突拍子もない言に、ミーナもルナもあっけに取られる。
『モ、モンスターっていきなり……あり得ないですよそんなの』
「そうだよお母さん、今そんな冗談……」
「本当に? だってミーナちゃん、今何も見えてないんでしょ?」
言われてハッとする。
そうだ。むしろ今は、「あり得ない」という発言自体がナンセンスと言える。
「まぁ、モンスターってのはちょっと盛ったけど。今はそれくらい異常な事態ってこと。本当に何が起こっても不思議じゃないんだから」
ルナは、暗闇の中で蠢く不気味な生き物を想像した。
それが外をうろついて、近くにいる人間を食べてしまう――と、そこまで考えて死ぬほど後悔した。
外の暗闇が、より一層恐ろしいものに思えてしまったから。
「とにかく、今から準備してすぐに向かうから。電話は繋ぎっぱなしにして、動かないこと」
『……モンスターが出た場合は?』
ミーナも想像してしまったのだろう、その声はちょっと本気で心配しているようだった。
「あはは、本当に出たらどうしようもないねぇ。とりあえず叫んで。叫ぶ前に食べられちゃってる気がするけ『めっちゃ叫びます』
食い気味な返答。
これだけ怯えていれば勝手に動くことはないな、とルナはちょっと笑う。
そのあたりはステラの狙いどおりである。
そうして、ミーナ救出作戦が始まった。
*************
「それじゃ、心の準備はいい?」
フルフェイスのマスクで籠もった声で、ステラがそう尋ねる。
フィーバスが用意していた、緊急用のマスクだ。
「うん、大丈夫」
目印用のビニール紐を握りしめて、ルナは頷いた。
100m×4つ。引っ越し準備のために多めに買ってあったのが幸いした、というのはステラの談。
「じゃあ、行くよ」
二人が一歩を踏み出すと、ピピっとセンサーが反応する。
緊張する間もなく、扉はあっけなく開き――
「……ここはまだ大丈夫みたい」
ステラが呟き、ルナはエアカーテンの駆動音にため息を紛れ込ませた。
内扉を開けた先の空間は、いつもと変わりがなかった。
ガーデン宅の玄関は、汚染物質の侵入を防ぐため内扉と外扉で区切られている。
いわゆる風除室のような構造だ。
「さっすが我が家、気密性は抜群だね」
内扉が閉まると、エアカーテンも止まる。
そうして静かになると、再び緊張が高まる。
「じゃあ、本番行くよ?」
靴を履きながら、緊張を和らげるためか軽い声を出すステラ。
その気遣いをありがたく思いつつ、しかし止められない動悸を感じながら、ルナも靴を履くとゆっくり頷いた。
『お出かけですか?』
「うん、ちょっとそこまで」
AIの合成音声にステラが答える。
そして二人は一歩踏みだし、
――ガチャリ。
外扉が開き、再びエアカーテンが駆動する。
が、その音も気にならないくらい、ルナはその光景に目を奪われた。
何とも不思議な光景だ。
開けたドアを境に、すべてが黒で塗り潰されている。
一応ライトを向けてみる。
が、やはり光は暗闇に吸い込まれているかのようで、黒は頑としてそこから動かなかった。
「ルナ、早く行こう。エアカーテンでどれくらい防げるのかわからないから」
差し出された手を、ルナは自然と握っていた。
この暗闇に今から足を踏み入れるのに、その手はどうしても必要なものだった。
そうして、一歩を踏み出す。
踏み入って、肌に触れる空気の感触は特に変わらない。
ただ、
「っ……」
――怖い。
ただただそう思った。
視界はすべてが黒に支配され、自分がまっすぐ立っているのかすらわからなくなる。
唯一確かな存在である母の手に引かれるまま、前へと数歩進んだ。
後ろで『行ってらっしゃいませ』という音声とともに、ガチャリと扉が閉まる。
まるで檻の鍵を閉められたような気分だった。
入ったことはないけれど。
「ルナ。紐、結べそう?」
その声で我に返り、慌てて後方を手で探る。
すると幸い、すぐに冷たい金属の感触を得た。
ただ困ったことに、
「えっと……」
握った手を離すのが怖い。
その心理を悟ったのか、ステラはルナの肩に空いている手を置いた。
「これで大丈夫?」
「うん、ありがとう」
その温もりを頼りに、勇気を出して握った手を離した。
そして、手探りでドアノブにビニール紐を結ぶ。
何方向かに強く引っ張ってみて外れないことを確認すると、「結べたよ」と報告する。
「ありがと。じゃあ、絶対に離さないでね?」
「うん、もちろん」
頼まれたって離したくない。
「じゃあ、行こっか」
気軽を装ったステラの声を合図に、二人は歩き出す。
ステラは左手を目一杯前に伸ばし、足下を確かめながら、そろり、そろりと歩を進める。
ルナはそんなステラの右手を左手で握り、右手でビニール紐にしがみつきながら、引っ張られて進んでいく。
小さく一歩進むのに、少なくとも2秒はかかっている。
亀でももう少し速いだろうという歩みのなか、不穏な考えだけが忙しなく飛び交う。
――歩いて3分の距離に、いったい何十分かかるんだろう。もしかして何時間かも。
――この紐、ちゃんとミーナのところまで長さ足りるかな? もし途中で足りなくなったら。
――本当に何も見えないけど、今もし車とかが来たら……いや、さすがにこの中で走ってるわけない……たぶん。
――車以外は? そう言えばさっき、モンスターがーなんて話をしてたけど……
ルナはつい思い浮かべてしまった。
真っ黒な体の巨大な獣が、後ろからその牙をルナに突き立てようと迫って――
「ミーナちゃん、聞こえる? 元気?」
『あ、はい! 元気です!』
唐突に始まったやり取りに、恐ろしい妄想は掻き消された。
そう言えば通話繋げたままだったと、ルナの高鳴った鼓動が少し落ち着く。
「そっか、よかった。こっちは今向かってるところだから安心してね」
『ありがとうございます! のんびり待ってますから、ゆっくり気をつけて来てくださいね!』
「ありがとう。ねぇ、ルナは引っ張られて歩いてるだけだから暇でしょ? ミーナちゃんの話し相手でもしてあげたら?」
「ちょ、言い方! 私がこの紐離したら、二人して遭難なんだからね!?」
なんて返しをしつつ、ルナもそれが母の気遣いだとわかっていた。
何も見えない暗闇。お互いの声だけが、その恐怖を和らげる唯一の方法だった。
それから三人は、他愛もない話をした。
最近食べたおいしいごはん、流行りの映画やドラマ、それに音楽のこと。
「どうせだし歌っちゃえば?」
とステラが言うと、ミーナは本当に歌い出した。じゃあ、とルナも声を重ねる。
普段ならこんな街中で歌えないな、と考えて、ルナは何だか楽しくなってしまう。
途中で2回紐を繋ぎ合わせ、歌が5曲を数えたころ。
「あ、ミーナの声!」
『うん、こっちも聞こえた!』
そこからさらに1曲歌い終わるまで、手探りの時間が続く。
しかしようやく――
「ひゃっ!」
ステラの指が何かに触れ、そこから声が上がる。
「ミーナちゃん?」
「はい!」
「ミーナ! はぁ、よかったぁー!」
こうして、二人は無事にミーナのもとへと辿り着いた。
「じゃあルナ、紐ちょうだい? で、ミーナちゃんと手を繋いで」
「あ、うん」
手探りでその作業を行うと、今までビニール紐を握りしめていた右手に、温かい手が握られた。
「こっちはOKだよ、お母さ……わっ」
ルナの言葉は、ミーナが突然抱き着いたことによって止まった。
「ありがとね、ルナ」
「……うん」
ミーナの声は少し震えて、湿っていて。
「だって私たち、相棒でしょ」
そう言って、ルナはぎゅっと彼女を抱きしめ返した。
自分の温もりが伝わるように。
ミーナの温もりを感じられるように。
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