白蛇

一 エリカ

 江里口エリカはうずくまった体勢で、両手を腹の下に隠した。


 だが呆気なく父親に腕を捕まれ、強い力で立たされた。

 その時点で父親がどこに向かうか察した。玄関だ。


 エリカのランドセルを蹴り飛ばして引きずる父親には逆らわず、むしろ進んで父親の向かいたいほうに歩く。

 エリカの目には無彩色の諦観が宿っていた。


 玄関から追い出され、鍵をかけられた。


 初秋の夜は案外冷えこみ、玄関外のタイルは鋭い冷感を伝えてきた。が、凍えるほどではない。


 エリカは、端的に形容するなら惨めな少女だった。


 伸ばしっぱなしの黒髪。

 爪が食いこみ血が出るほど握り締めた右手。

 その爪は砂粒が挟まって黒く不潔なまま放置されていた。

 生気のない唇が秋風に晒されていた。


 足首には黒ずんだ跡が二つ縦に並んでいた。

 黒子に見えるがそうではない。注射跡のような、不気味な傷だった。


 だが、そんな惨めさをモノともしないほど端麗な顔立ちに、潤いを宿した魅力的な瞳もまた、少女は備えていた。


 エリカが裸足で立ち尽くしたのは数分のこと。

 気を持ち直すと、玄関灯に群がるカナブンに嘲笑を浴びせた。


「よし。どこ行こっかな」


 歩き出した。夜闇で視界が悪い分、庭の土の匂いが新鮮だ。


 庭を出て、舗装道路に降りた。

 アスファルトの石粒がエリカの柔らかな足の裏を傷つける。

 一瞬痛みに慄いて、ぐっと眉間に力をこめた。


 まずは幼馴染の友達の家を目指そう、と決心した。


 行き先が決まれば気分が高揚する。

 先程の父親の怒号はエリカの意識から消え失せていた。

 ワクワクした冒険心が腹の底から湧き上がる。




 幼馴染の家は道路を挟んだ向かいだ。

 日付が変わろうとする時間帯に住宅街を通る車は少ない。


 エリカは道路の真ん中をつっきって、幼馴染の家の玄関のインターホンを鳴らした。


「はい?」


 扉を開けたのは、幼馴染の秋内アキホシだった。


 頬まで伸びた長めの前髪をセンターで分け、隠されていない額にはまだ瘡蓋になっていない真新しい擦り傷があった。


 家が近所で二つ年上の少年。

 アキホシとは毎日のようにサッカーやままごとやかくれんぼで遊んでいた。


「ちょっとね、追い出されたから来た。今入ってもいい?」 


「えー? いや駄目駄目。うち今、母親泥酔中」


「あー……わかった……。じゃあまたね」


 まさか断られるとは思わなかった。

 エリカは早々に諦めて、進路変更して空地へと向かった。


「待って」とアキホシが追いかけてきた。


「家に入るのは駄目だけど、一緒に遊ぶのはいいよ。姉さんが塾から帰ってくるまでなら」


 口先を尖らせて弁解するアキホシに、エリカは「なんだそりゃ」と笑った。


 朝まで無限にある時間をどう過ごそうか。

 友達と一緒にいれるとさっきの何倍もワクワクする。


 二人は空地に向かった。

 空地は近所の小学生たちのたまり場だった。


 放課後は子供で溢れ返っているその場所を二人占めしている楽しさは言いようもなかった。





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