曇天の恋

鍔木シスイ

曇天の恋

 その日は、せっかくの日曜日だというのに、鈍く、どんよりと重さのある曇り空で、その事実が私の気分をひどく落ち込ませた。

 他人からすれば、「たかがそんなこと」なのだろう。が、私にとっては、至極真面目で深刻な問題である。

 天気が曇りであること。それは、私にとって、ひどく耐え難い事実なのだった。

 昔から、「曇り」という天気が苦手だった。晴れでもなく雨でもなく、どっちつかずの天気。それに関するトラウマがあるわけでは無いのだが、どうしても苦手なのである。どうしてだかは自分にもよく分からない。理由がうまく説明できないのだ。

 ともかく、自分は「曇天」が苦手なのである。

 そして、その日の天気が「曇天」であることで、私にどんな支障が出るかと言うと――

 まず、その日の天気が曇りであると言うだけで気分がひどく落ち込む。まだそこまで落ち込まない、簡単に言えば「」は、カーテンを勢いよく閉めて、そのまま自室に引きこもる。よほどの用がない限りは外出しない。ひどい時は、朝起きて、カーテンを開けて、曇り空なのを確認するやいなや布団に逆戻りする。ほとんど不貞寝ふてねだ。昼間だというのに薄暗い部屋の中、卓上灯だけをつけて仕事机に向かうこともしばしばである。

 今日はせっかくの日曜日だから、何処か――まだ行ったことのない場所――へ出かけようとしていた私だったが、カーテンを開けるなり出鼻をくじかれてしまった。

 また今日も薄暗い部屋の中で一日を過ごすのか――確信にも似た予感は、私の心に深く沈澱ちんでんした。重く重く沈み込んだ予感は、大きな泡を立てて沈んでいく。そうして、心の奥底からわき上がってきた泡はそのまま口からこぼれて溜息になってしまう。

 このままでは仕事もままならない。

 やる気が無くてもやらなければならないのが「仕事」、と言われてしまえばそれまでだ。とても極端な話をすれば、やる気が無くとも、仕事は出来る。やる気があるかどうかは、仕事をする、という行為に、何の影響も与えはしないのだから。

 しかし、それでは「いいもの」は書けないのである。

 ここで、少し話は逸れるが、私自身の話をしよう。

 私は、しがない短編作家である。

 「短編作家」、という表現を使えば、何だかそれなりに体裁はととのって、ある程度の格好はついているようだが、実際は「長編が書けないから、短編を書いて食いつないでいる」に過ぎない。一応、肩書きとしては「作家」で、職業は「文筆業」なのだが、知名度は低いし、ファンレターをもらったこともない。

 けれど、私はこの仕事を好いていた。たとえ、雑誌のページを埋めるために駆り出されているだけだとしても、自分の書いた物が、目に見える、後に残る形になるのは嬉しかったし、何万人かに一人は私の作品を読んでくれる人がいるのではないか、と思うだけで少しは救われるのだから。

 だから、私は「より良い作品」を書かねばならない。それは私にとってプライドに近いものである。

 だというのに、やる気が出ないのだ。

 やる気が出ないままに書いた作品は概してつまらない。推敲の為に、ある程度時間を置いてから、自分で読み返しても、ああ、つまらない話だ、と感じてしまう。自分で読み返しても、退屈だと感じてしまう文章。「小説」や「物語」ではなく、ただ、考えをだらだらと怠惰たいだつづっているだけの文章。そこには誰かを楽しませようという気持ちもなく、誰かに向けたメッセージもありはしない。そんなものを誰が読んでくれるというのだろう。いや、それ以前として、そんなものを世に出すのは恥ずかしくて仕方ない。

 だから私はどうにかやる気を出さねばならない。

 私にとって、「より良い作品」を書く為に。

 しかし、曇天の日は、無闇むやみにやる気が失せる。私は、「より良い作品」について考えるのをいったんやめて、机に突っ伏した。卓上灯の光が目に飛び込んできて、目をすがめる。どうにかしてやる気を出さねばならないというのに。そして仕事をしなければならないというのに。どうしたらいいのだろう。

 卓上カレンダーに書かれた「〆切しめきり」の二文字がちらついた。〆切を守らねばならない、という義務感はある種の心地よさを伴っているのだが――書けない。書く気にもならない。食事も仕事もせずに眠っていたくなる。しかし、仕事をしなければならず、〆切も守らねばならない。そういった気持ちは消えてはくれない。

 どうにか気分転換をして、やる気を出さなければ――と、考えを巡らせる。どうにかして、この「やる気が出ない」という重石おもしを取り除かねばならない。そして、自分が思う「より良い小説」を書かねばならない。少なくとも、他人の目にさらしても問題ないと思えるような作品を書かねば……

 そのために、と私は考える。

 家にいる限り、この気持ちは続くだろう。ならば、気は進まないが、外出するのも良いのではないか。

 あまり遠くに行くのは気が進まないから……そう、近所で、どこか、いいところは……

「あ」

 思いついた。そうだ。あそこなら。

 私は、がたん、と大きく椅子を揺らして立ち上がった。

 近所のカフェが頭に浮かんでいた。

 ――あそこに行こう。

 そして、普段は頼まないような甘ったるい飲み物と、ケーキとを注文して、気分を変えよう。座る席は、出来れば、出来る限り窓から離れた――外の景色が、曇り空が見えない席がいい。曇り空が見えればきっとまた、気分が沈んでしまうから。そうして、その席で、ゆっくりと作品の構想を練る。完璧なプランだ。

 そうと決まれば、善は急げとばかり、私の行動は早かった。四百字詰めの原稿用紙と、安物だが長く愛用している万年筆だけを、少しくたびれたエコバッグに放り込んで、家を飛び出す。

 カフェに到着するまでの間、なるべく空を見ないように下を向いて歩いた。うつむきがちに歩くと、少しずつ、自然に気持ちが沈んでいくが、カフェに行くまでの間だけ、と思えば気が楽だった。

 ドアを開けると、チリンチリン、と軽やかな音を立てて、ドアに取り付けられた鈴が鳴る。カウベルのようなものではなく、神社などで見るような本物の鈴だ。

「いらっしゃいませ」

 店主の女性が、あいさつしてくれる。ここには何度も来ているから、私と彼女は、いわゆる顔なじみというやつである。

 私は、窓から離れた席を探し、結果としてカウンター席を選んだ。エコバッグから、原稿用紙と万年筆を取り出す。

 そうしてやっと、さて何を注文しようか、と思案し始める。

 見慣れているはずのメニューを、改めて丹念に読んでいくと、苦そうな飲み物の名前ばかりが並んでいた。

 カフェ・モカ、カフェ・ノワール(いわゆるブラックコーヒー)、エスプレッソ、カプチーノ。

 とりあえず、当初考えていた予定通りに、「メニューの中で一番甘そうなもの」を頼んでみることにした。

 飲み物は、キャラメルロイヤルミルクティー。

 そして、茶菓子は、チョコレート味のミルクレープ。

 店主の女性は、私の注文内容を聞いて、少しの間だけ、意外そうな顔をした。が、静かにうなずき、「かしこまりました」と柔らかい声音こわねで言って、用意を始めた。

 普段は珈琲党コーヒーとうである私は、ミルクティーなど頼んだことがなく、それがどんな風に作られる飲み物なのかも見当がつかなかった。牛乳と、紅茶とを使うことぐらいしか想像がつかない。そこで、座っているのがカウンター席なのを幸いに、興味を持って、彼女の作業を眺める事にした。

 まず、彼女は小ぶりな片手鍋を棚から取り出した。計量した水を鍋に注ぎ、沸騰するまで温める。その間に、別の棚から紅茶の茶葉の缶を取り出した。棚の奥には、他にもいくつもの缶や、珈琲豆を入れた留め金付きの硝子瓶ガラスびんが見える。

 彼女は慣れた手つきで、スプーンで缶から茶葉をすくって、鍋に入れた。そのまま何もせずにふたをする。

「少々お待ちくださいね」

 私は黙ってうなずいた。蒸らしてじっくりと抽出する方が、おいしくなりますから、と彼女は笑った。彼女は、カウンターの下から小さな砂時計を取り出すと、ことん、とひっくり返してカウンターに置いた。繊細にきらきらと輝く、白い砂――まるで雲母うんものような、細かい粒子である。

 砂が落ちきる前に、彼女は牛乳を用意した。冷蔵庫から取り出したばかりの、少し冷たい牛乳。その牛乳は、砂が落ちきる頃には、きっと常温に近づいているだろう。

 牛乳を冷蔵庫から取り出した後は、ミルクレープを用意する。白磁はくじの皿に、生地もクリームもチョコレート風味の、チョコレート・ミルクレープを優しく載せ、それに泡立てた生クリームを少々添える。そして、ミルクレープには、まず微細な粉砂糖を振りかけてから、その上にココアパウダーを振りかけた。それは、白と焦茶色の美しい二重奏を作っていた。味に深みを出す為だろう。

 砂が落ちきると、今度は牛乳を計量して、鍋に加えた。もう一度火をつけ、温める。今度は、ふつ、と鳴る前に、火を止めた。

 彼女が用意したのは、群青色の、深さを持ったコップだった。まずコップの底に、キャラメルシロップを注ぐ。そこに茶漉ちゃこしをのせ、鍋の中身を静かに優しく注いでいく。開いた茶葉は茶漉しで漉されて、コップの中には、キャラメルシロップの沈んだミルクティーが出来上がる。

「はい。お待たせいたしました」

 目の前にきょうされたその二つの品は、いかにも甘そうに見えた。キャラメルロイヤルミルクティーなど、湯気からも甘みが感じられるほどである。

 私は、いつもの癖で、手を合わせ、いただきます、と呟いた。

 まず、チョコレート・ミルクレープに口をつけることにした。きれいに磨かれたフォークをミルクレープに入れると、しっとりとした、やわらかく確かな、クレープ生地の手応えがあった。そのまま切り取った一切れに、添えられた生クリームをつけて味わう。

 表面にふりかけられたココアパウダーの苦みと、粉砂糖の甘みが、口の中で溶けていく。その後、ココアクレープの苦みと、チョコレート・クリームの甘みが、口いっぱいに広がった。

 全体としては、甘い。振りかけられたココアパウダーの苦みが下の上を通り過ぎてしまうと、それは全体的に甘くしっとりとした菓子だった。

 けれどこの幸福感はどうだろう。味はありきたりなココアとチョコレート・クリームのものなのに、一口食べただけで、どうしてこんなにも幸せなのだろう?

 不思議に思いながら、私はキャラメルロイヤルミルクティーに口をつける事にする。飲む前に、底に沈んだキャラメルシロップをしっかりと混ぜる事も忘れない。

 口に含む。優しい温度と共に、口いっぱいに広がる、甘みと紅茶の香り。遅れてやってくる、キャラメルシロップの甘みは、想像よりも濃く、舌の上に確かな重みを持って残った。

 ただひたすらに甘いだけなのだろうと思っていた。しかし、私が注文した二つは、甘いだけではなかった。

 いや、甘い事は甘いのだ。

 しかし、それぞれに違った甘みだった。質や喉ごしはもちろんだけれど、舌の上に残る後味、それを口に含んだ時の幸福感さえも違っていたのだ。

 ――この気持ちを、どう表現したらいいだろう。

 ――どうしたらこの気持ちを、他の誰かに伝えられるだろう。

 その二つは、私が久しく忘れていた感情だった。

 あの幸福感を、あのおいしさを、伝えたい。

 私が感じた幸福感と、私が感じたあのおいしさを、伝えたい。

 そして、それを伝えたい相手とは――

 私は万年筆を持ち、自分でも不思議になるほどの速度でさらさらと筆を進めた。今日が曇りの日だ、という憂鬱ゆううつな事実は、すっかり何処かに吹っ飛んでいた。私はやる気に満ちていた。

 そうして、気づいた時には、下書きが、出来ていた。それは、いつもと似たような、けれどいつもとは一味違う短編だった。

 私は、なかば呆然としながらも、その短編を眺めた。

 こんなにも、書けるものだったろうか。ただ二つの、ケーキとミルクティーとからつむぎ出される世界。甘い甘い、けれどただ甘いだけではなく、ちょっぴり苦い物語。

 それは、喫茶店のマスターと常連客の……

「書けましたか?」

 はっと顔を上げると、カウンターの向こうで、店主の女性が、嬉しそうに、小首をかしげて微笑んでいた。恐らく、短編を書いている私をずっと見守っていてくれたの違いない。やわらかい声音は、私の中に静かに浸透した。

「……はい、」

 私は静かにうなずいた。そして、たったいま書き上げたばかりの短い物語を見つめた。まだタイトルすら付いていない物語。しかし、それは恋の物語だった。

 他でもない私の気持ちを――「誰か」に伝えたい気持ちをこめた、物語。

 そして、その「誰か」とは。

「読んで、いただけませんか」

「まあ。よろしいのですか?」

 私は書き上がったばかりの物語を、原稿用紙を、彼女に差し出した。彼女は、戸惑い、驚いているようだった。こんなことは、今までになかったからだろう。

 私は、彼女をまっすぐ見つめる。

「はい。……あなたに、読んでいただきたいのです」

 口をついて出た言葉は、意外なほど熱烈な言葉で。

 まるで、愛の告白のようで。

 彼女は、ほんの僅か、頬を染めて、

「……はい。よろこんで」

 私の作品を、受け取ってくれた。


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