◆3.骨の魔法使いとユカ

 そのようにしてユカは齢を六つと数え、七つに、そして八歳となりました。


 ユカが八つになったその年、骨の魔法使いはそれまでの教育の成果を実地に試す意味も兼ねて、はじめてユカを人間の街へと連れ出したのです。

 それも、森の存在する地方では他に類を見ないほどの盛大さを誇る、華やか極まる夏祭りの一日を選んで。


 旅芸人の列に続いて城門をくぐれば、そこにはユカにとって未知そのものの世界が広がっておりました。

 浮かれ踊る人々がまとうのは色とりどりの一張羅いっちょうらで、屋台から漂う芳香は馥郁ふくいくとして食欲を掻きたて、楽師たちの演奏は行き交う喧噪すら添え物として楽しさに満ちています。


 目に、耳に、鼻に。

 五感を、あるいは六感をも余さず貫いて刺激する、これが……。


「わあ! これがお祭り! これが街!」


 我知らず興奮した声をあげたユカに、骨の魔法使いが嬉しそうに口元を綻ばせます。


 さぁ、母子おやこのお祭り見物ははじまります。

 優しい母に手を引かれて、一つ辻を曲がり、一つ大路を渡るうち、ユカの緊張はあっというまにほどけてどこかへ消えています。

 それが魔女による社会勉強の一環であることなどまるっきり忘れ去って、関心を引くものがあれば遠慮なく立ち止まって母のそでを引き、あらゆる物事にたいして素直に感嘆の声をあげ、いつのまにやら反対に母の手を引いて先を行っているような始末です。


 ああ、そして、子供が子供なら親も親です。

 浮かれ喜ぶユカの様子には骨の魔法使いのほうもまた母親冥利を刺激されたて、こちらもいつしか教育のことなんてすっかり忘れてにこにこ顔、我が子を見守る目元にはただ幸せだけが浮かんでいます。


 こうして、森から来た親子は一組の、変わったところなんてなんにもない普通の母子となってしばしお祭りを楽しんだのでした。


 さて、ひとしきりお祭り見物を堪能して、一息ついた頃のことでした。


「ねぇユカ、しばらく一人でお祭りを見ておいでなさいな」


 飴売り屋台で買った飴を二人仲良く食べたあとで、骨の魔法使いが突然そう切りだしたのでした。

 それから、母はこの日の為に用意しておいた巾着きんちゃくを取りだすと、その中に一枚一枚しっかりとユカに見せながらお金を入れてゆきます。

 そして最後に、お金で膨らんだ巾着を不思議そうに見つめている息子の手を取って、「はい、どうぞ」とそれを握らせたのです。


「おこづかいをあげるのははじめてね」


 骨の魔法使いは嬉しそうに微笑むと、ゆるんだ頬を少しだけ引き締めて続けました。


「さ、ここからはお金の使い方と、それから自由との向き合い方を覚えてくる時間よ。忘れてはいけないわ。ほら、なんたって今日はお勉強に来てるのだもの」

「でも母さま、こんなにたくさんの人の中で別れたら、もう二度と母さまと会えない」


 巾着と母の顔とを落ち着きなく見比べながら、ユカが不安そうに言います。

 そんな我が子に、骨の魔法使いは力づけるような笑顔で応じます。


「安心なさい。頃合いを見て私から迎えにいってあげるから」


 そう母は言い、それから、愛情と厳しさをぜにした瞳をユカに向けたのでした。


「ね、ユカ。どんな子供も、いつかは必ず親から離れるの。母様だってそうだったし、あなたも、いつかきっと。だから、そのときにあなたが目の前の自由に怯えないように、きちんと自分自身を頼れるようになるために、今日はその為の訓練をしてくるのよ」


 そこで言葉を切ると、「少し大(おお)袈(げ)裟(さ)だったかしらね」と母は茶化してみせました。

 そして、なおも不安げな顔をしているユカに笑いかけて、さらに言ったのです。


「安心しなさいな。私があなたを見失うもんですか。私はこれでも魔女と呼ばれる女、深きの森の骨の魔法使いよ? それになんたって、私はあなたの母様なんだから」


 そうでしょう? といたずらっぽく片目を瞑って見せてから、骨の魔法使いはくるっとユカを反転させて、励ます力を込めてとんと押します。

 押された勢いでユカは少しだけよろめいて、だけど前に出した足で地面を踏んだ瞬間から、しっかりと歩き出しています。

 何度か振り返って母を見ましたがそれでもけっして立ち止まらずに、魔女の息子はそのまま雑踏の一員となりました。


 もちろん、依然として胸中には不安もありました。

 けれども同時に、ユカは一つの思いに支えられています。


 私はあなたの母様なんだからとそう言ってくれた、自分はその魔女の息子なのだとの。


 こうして再び、そして今度は単身で、ユカはお祭り見物に繰りだしたのです。

 彼は屋台という屋台を順番に覗いて、大道芸人を囲む人々の列にも参加します。

 そうしてお祭りを回るうち、母との関係性がつちかった好奇心はすぐにユカの中で緊張を押しのけて、不安はたちまち消化こなされて余裕を生みはじめます。

 ユカは母がやっていたのを真似して芸人におひねりを投げました。いくつかの屋台では買い物のあとに店主との談笑にも挑みました。さらには見習いまじない使いによる占いの机にも並びました。


 人々の技術わざ生業なりわいの多様さは、多様であるというだけでユカを圧倒します。十人いれば十色といろ、百人いれば百花ひゃっかと咲き誇る人生の鮮やかさに、幼子おさなごは大いに刺激され、そして、『将来』という問題についてはじめて深く考えさせられることとなりました。


 僕はどんな大人になるのかな。どんな夢をもって、僕は母さまの森を離れるのかな。


 さて、そうこうするうちに刻限は過ぎゆきます。

 陽は西へと傾き、足の遅い夏の夜が東の空に忍び寄りはじめた頃、母からもらった巾着はすっかりと軽くなっておりました。


 自由とお金の使い方をひとまずは十分に学んだユカは、最後の最後に残った一枚の銅貨をどう使おうかと、思案に思案を重ねながら街を歩いています。

 そうして広場にさしかかったとき、彼はぽつねんと立つ一人の男をそこに見いだしました。それは冴えない風体ふうていの中年で、しかし脇に置かれた楽器だけが彼の生業がなんであるかを主張しています。

 男は通り過ぎていく人々をやる気なさげに見送っています。


「あのう、ごめんください」


 ユカは男に声をかけ、「見料おあしはこれで足りますか?」と最後の銅貨を差しだしました。


 それまで不景気面をしていた男が、さっと営利の笑顔を作ります。

 差しだされた銅貨を見つめながら素早く計算を巡らせたあとで、「よござんしょう」と胸を叩きました。


「それで坊ちゃん。坊ちゃんのご所望になる夢は、はて、いったいいかなるもので?」


 銅貨を懐にしまいながら楽師がユカに問いました。


「夢? ……ええと、おじさんは、歌とか演奏を商売にしている人じゃないの?」


 戸惑い顔でそう問い返すユカでした。

 幼子のこの反応は、男の職業意識と矜持きょうじとをたいそう刺激したものと見えました。

 楽師はにわかに満悦のていとなり、抱え直した弦楽器を大袈裟につま弾いて答えます。


「いやいや坊ちゃん。このアタシをやかましいだけの芸無しどもと一緒にされちゃあちょいと悲しいやな。いいですかい? アタシが売るのはひとときの夢、ひとときの幻想なんです。悲しい夢に楽しい夢、切ない夢に奔放な夢、すなわち――」


 男はぴんと立てた指をユカの鼻先で振り、続けました。


「古今と東西のあらゆる物語。そいつがアタシの商売の種でして」

「ということは……おじさんは語り部? 物語師なの?」


 興奮もあらわに問い返すユカに、「さようでございます」と男が胸を張って応じます。


 ユカの瞳に輝きが宿ります。

 なにしろ物語はユカの大好物。夜毎よごとに語ってもらう物語に胸をときめかせ、もっともっととねだっては母を困らせる子供だったのです。


「はは、どうやら坊ちゃんはおはなし好きのよい子とみえるね」


 ユカはこくこくと何度も肯きます。よい子と言われたのに照れるのも忘れきって。

 語り部が愉快そうに声を上げて笑います。


「それじゃあそんな坊ちゃんに、少しだけおまけを致しましょう。こいつはこのあたりじゃあ特になじみのある怪談で、しかしだからこそ人気も高い、そんな物語だ」


 いいですかい、こいつは普通銅貨一枚じゃあやらないんですよ?

 そんな恩着せがましい口上にも素直に感謝して、ユカは物語のはじまりをいまかいまかと待ちわびます。


 男が商売道具をつま弾きます。弦楽器が静かに音を紡ぎはじめます。


 流れだしたのは慎ましやかな旋律でした。けっして主役とならない、かたられる物語の従者となる音楽、背景となる音楽が、上質な絨毯じゅうたんのように広げられてゆきます。


 雑踏の声が遠ざかります。

 ユカは身体ごと耳となり、ただ物語に意識を集中させます。


 幼子の胸に期待は膨らみます。弾けそうなまでに膨らみます。

 そして、そして。


 ……そして、それは唐突にしぼみます。


 男が物語の題を口にしたその瞬間、ユカの瞳からは輝きのすべてが失われたのでした。


「これなるは魔女の物語。暗い森に住む呪われた女。骨を愛でる夜の女、そしてわらべかどわかす鬼女――ご存知、骨の魔法使いの物語だ」

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