皇帝陛下の婚活──その溺愛に気づかない秘書は今日も華麗に空回る

秋月忍

 エレナ・クライツルは皇帝付きの秘書官である。

 家は子爵家ながら、国立学院を首席で卒業し、財務官となった。その後、皇帝アイザックの(当時は皇太子であったが)秘書官に抜擢されて五年──現在に至る。

 くすんだ茶色の髪。整ってはいるのだが、なぜかパッとしない顔立ち。そのせいか、どこにいても目立たない。家庭教師が着るような地味でシンプルな色合いのドレスを着ていることもあって、さらに存在感が消えている。皇帝アイザックがエレナを重用しているのは、そのためではないかと、エレナは考えている。

 皇帝アイザックの周囲にいる面々は、一癖も二癖もある人物が多い。いずれも個性あふれる魅力的な人物といえば、そのとおりだが、さすがに四六時中では疲れるだろう。常にそばにいる人間は、地味な方が落ち着くと考えても不思議はない。

 周囲もさることながら、何といってもアイザック本人の存在感は群を抜いている。

 短いダークブラウンの髪。通った鼻筋。大きなエメラルドグリーンの瞳は、常に強い光を宿している。執務室の中なので、上着のコートは着ておらず、ベストとキュロット姿だが、そのようなラフな姿でも、威風堂々としている。

 その美しさはまるで神そのひとであるかのようだ。

 外見だけでなく、治世者としての能力も突出している。

 アイザックは、二十八歳。皇帝に就任して三年たとうとしているが、国政は安定し、さらなる繁栄が見込まれる。

 まさしく、パーフェクトな王者だ。

 唯一と言っていい懸念事項は、未だ皇妃がおらず、跡継ぎが決まっていないことくらいだろう。

「陛下。フィリップ・ラスコール公爵さまがお見えです」

 エレナは皇帝の執務室の扉を開け、来客を告げる。

 今日のアイザックも、後光が差しているかのように神々しい。秘書の仕事は決して楽ではないが、麗しの皇帝の尊顔を間近で拝謁できるだけで、エレナは幸せだ。

「要件は何だ?」

 アイザックは、机に積み上げられた書類に視線を落としている。

 アイザックの仕事は多岐にわたり、その量も膨大だ。スケジュールをどんなに調整しても、どうしても減らせない量というものがある。

 エレナとしてはもう少し皇帝の仕事を減らしたいと思っているが、それは秘書の権限ではどうしようもない。皇帝に代わりはいないのだ。

「陛下のご縁談の件だとお伺いしておりますが?」

「ああ、その件か」

 アイザックの顔が不機嫌になる。

 あきらかに、乗り気ではない。

「お通ししても?」

「嫌だと言っても、通す気だろう?」

 アイザックの意に染まぬことは、エレナだってすすめたくはないが、この件に関してはそうも言っていられない。皇帝の結婚は、単なる恋愛とは違う。

 それに今回、ラスコール公爵が結婚をすすめにきたのには理由がある。ただ、その理由について、エレナが口を出すことは躊躇われた。

「ラスコール公爵さまは陛下のため、国家のためにおいでになられたのです。陛下のご成婚は我が帝国の安定のためにも必要なことですから」

「そんなことはわかっている」

 アイザックはムッとした顔のままだ。

 わかってはいても嫌だということなのだろう。皇太子の頃からうんざりするほどモテすぎているせいなのか、アイザックは女性が傍に近づくことを厭っている。夜会でも必要な時以外は、女性と踊ることはほぼない。本人は何も言わないが、女性嫌いだと評判だ。

 そんなアイザックが女のエレナを秘書官にして、傍に置いているのは不思議な話である。『仕事相手』ならば大丈夫ということなのか、それともエレナが女性に見えていないのかもしれない。おそらくは、後者だ。そう考えるとエレナの胸はじくりと痛む。が、良くも悪くも目立たないエレナの容姿を考えれば、仕方のないことだ。むしろ意識されないことで、アイザックのすぐ傍にいられることこそ、幸福とエレナは割り切ろうと思っている。

 エレナはアイザックを誰よりも崇拝しているが、男女の仲になりたいなどと考えてはいない。アイザックが意識していないのなら、エレナも意識しなければいいのだ。

「陛下は何もわかっていらっしゃらない」

 まだ控室にいたはずのフィリップ・ラスコールが執務室に入ってきた。

 ラスコール公爵はアイザックの腹心だ。勝手に入ってくるのはマナー違反だが、相手がラスコールだから誰も止めなかったのだろう。

 ラスコールは少しくすんだライトブラウンの髪で、中性的な顔立ちをしている。身体の線もやや細い。薄い水色のロングコートには、金糸の刺繍が入っている。

「縁談を忌避している暇などありませんよ。この際、はっきり申し上げます。失礼ながら、陛下に男性の恋人がいるのではないかとの噂がありましてね」

「なっ?」

 ラスコールの言葉に、アイザックは目を丸くした。心底驚いたようだ。

「何なんだ、その噂は?」

「何だとおっしゃられましても」

 賢明なる皇帝であっても、社交界の下世話な噂話全てを把握しているわけではない。まして、皇帝本人の前でそのようなことを言う者はいないだろう。水面下では、かなり大きな噂になってはいたのだが。

「あろうことか、陛下と私が恋仲であるという話になっています」

「は?」

 ラスコールは大きく頭を振る。

「殿下が誰とどのような恋をしようと構いませんが、私に火の粉をかぶせないでください。私にはきちんと愛しい婚約者がいるというのに」

「話が理解できない」

 アイザックは理解不能という顔だ。

「よりによって、どうして、お前と?」

「知りませんよ」

 ラスコールは忌々しそうに息を吐いた。

「おおかた、陛下に袖にされた令嬢が面白がって言い出したに決まっております」

「冗談にしても笑えんのだが?」

 二人は信じられないという顔をしているが、エレナはどうして二人が噂になったかは理解できなくもない。ラスコールはアイザックの腹心で、常にそばにいるし、なんといっても二人が並んでいると絵になるのだ。

「とりあえず、早急に婚約なさってください」

 ラスコールはいらいらするのを隠さずに言い放つ。

「そんな急に言われても」

「変な噂のせいで、私の婚約者が泣いております。陛下のせいですよ。クライツル殿もそう思われますよね?」

「ええと」

 突然話を振られて、エレナは言葉に詰まる。

 婚約者がそんな噂を信じたのは、アイザックのせいとはちょっと違う気がする。ただ、信じていなくても不快ではあるだろう。

「そんな噂は本当にあるのか?」

 アイザックはどこかすがるような目で、エレナを見てきた。

「私も聞いたことがございます。少し前から、まことしやかに令嬢たちの間で囁かれておりまして、ラスコールさまのご婚約者であられるダーナ侯爵令嬢も、どなたかから噂をお聞きになられたのではないかと」

 エレナは遠慮がちに口を開く。

「陛下もラスコールさまも人気がございますから、一人の女性のものになるくらいならいっそ完全に届かない方が良いという令嬢がたも多いのではないでしょうか。陛下が女性嫌いだというのも噂に拍車をかけているかと」

「待て。俺が女性嫌い?」

 アイザックが驚いたように聞きとがめる。

「ひょっとして、エレナも噂を信じていたりしないよな?」

「さすがに、それは。ラスコールさまがダーナさまに夢中なのはよく知っておりますので」

「それはフィリップを信じているだけだよな?」

 アイザックは不満そうだ。

「ええと。少なくとも陛下のスケジュールを把握しておりますので、今のところ恋人がいらっしゃらないことは存じております」

「つまり、恋人がいないことは知っていても、それ以外のことは信じているかもしれないということですよ、陛下」

 ラスコールがにやりと笑いながら、横から口をはさむ。

「……なんでそうなるんだ」

 アイザックは顔に片手を当て天井を仰ぐ。

 酷くショックを受けているようだった。

「陛下、それでしたら、婚約者選定の儀式をなさってはいかがでしょうか?」

 エレナはポンと手を叩く。

「婚活をなさって、恋人をお作りになられれば、すぐに噂など消えます!」

「婚活って、ちょっと、エレナ?」

「国内の未婚の貴族の令嬢あてに、招待状をお出しします。直ちに手配をいたしますね」

「うん。それがいいですね。陛下も覚悟を決めてください」

 エレナの提案にラスコールも賛成する。

「……フィリップ、てめぇ」

「そもそも気になる女性がいつまでも未婚でいるわけではないのですからね」

「……わかっているよ」

 アイザックは大きくため息をついた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る