傷心公爵令嬢レイラの逃避行 ルイス編
染井由乃
第1話
子守唄が聞こえる。
銀の月影の溶け込むような、物悲しい歌声が。
大嫌いなお姉さまによく似ていて、それでいて本物にはなりきれないこの声は、きっと、私のものなのだろう。
「ねえ、いいの」
錆びた鉄格子の向こう、夜の闇に隠れるようにして、少年が問う。
「このままじゃ、あなたに待っているのは、死も許されない地獄だよ」
まだ幼い少年の手が、牢の鍵に触れた。よく見ると、小指の先が曲がっている。
「それでも、いいの――?」
少年の姿が、わずかに月影に照らし出される。
「彼」によく似た鳶色の髪が、小さく揺れた。
「――よくないよね、ねえ? 母さん」
「――っ」
全身に冷や汗をかきながら飛び起きる。眠っていたはずなのに、ひどく息が乱れていた。
「……今の、って」
お姉さまとはまるで違う、美しい白金の髪が剥き出しの肩を滑り落ちた。体に巻きつけた薄手の毛布の下は、ネグリジェではなく下着姿だ。
……ああ、そうだ、私は彼を――。
隣には、初恋のひとが静かな寝息を立てて横たわっていた。いつも隙なく着こなされているシャツは、つい先刻、私が自らの手で乱した。
彼との――私の婚約者である王国アルタイルの王太子殿下との既成事実を捏造するために。
私が盛った薬はよく効いているようだ。ついさっき見ていた悪夢も忘れて、初めて見る初恋のひとの寝顔に見入る。
月影を宿したような美しい銀の髪。彫像のように冷たく整った顔立ち。今は見えないけれど、伶俐な蒼色の瞳も好きだ。彼はまさに、私の好きな「美しいもの」だった。
「――ラ」
殿下が、わずかにみじろぎをする。その瞬間、重なった長いまつ毛の隙間から一粒の涙がこぼれ落ちた。
「レイ、ラ……」
「っ……!」
ずきり、と胸の奥を鋭い刃物で抉られたような痛みを覚える。
……あなたは、夢の中でまでもお姉さまのことを求めていらっしゃるのね。
ふ、と乾いた笑みが浮かんだ。そっと下腹部に掌を押し当て、まつ毛を伏せる。
このお腹に命が宿っていたとして、その子は絶対に殿下には似ていない。きっと、先ほどの悪夢に出てきた子のような姿をしているのだろう。私の護衛騎士にそっくりな、鳶色の髪を持つ子だ。
……ひょっとして、あの子って……。
馬鹿げた考えに思い至り、くすくすと小さな笑い声がこぼれた。自分で言うのもなんだが、ひどく疲れた響きだ。
「ああ……疲れた」
取り返しのつかない大罪を重ねて手に入れた立場なのに、このところ、私はすこしも幸せではない。
お姉さまが深い眠りに落ちてから、ずっと、首に重い鎖をつけられて生きているような心地だ。
「もう……いいわ」
月影も、アネモネもない場所へ行きたい。誰の目も届かない、鎖も罪もない場所へ。
「……ローゼ?」
冷たい声に、はっと顔を上げる。いつの間にか、隣で眠る殿下が気だるい瞬きを繰り返していた。
「っ……!」
反射的に、寝台から転げ落ちるように殿下から離れる。脱ぎ捨てたドレスを簡単に纏い、恐る恐る彼の様子を伺った。
翳りを宿す蒼色の瞳が、私の姿を捉える。その瞬間、許されない罪を突きつけられたような気になって、両目から涙がこぼれ落ちた。
こんなの、強くて美しい私らしくない。
けれども先ほど見たあの悪夢が、小指の曲がった少年の姿が、私をひどく弱らせるのだ。
「ごめんなさい……殿下」
ぼろぼろと涙をこぼしながら、似合わない謝罪の言葉を繰り返す。
「ごめんなさい……!」
今夜のことも、お姉さまのことも何もかも全部。
一方的な謝罪を押しつけて、たまらず部屋から飛び出した。
ここじゃない、どこか遠い場所へ行こう。
いなくなるべきはきっと、大嫌いなお姉さまではなく、私のほうなのだから。
◇
体が鉛のように重い。目覚めて早々に感じたことは、ただその一点に尽きた。
どうにも信じられないことだが、私は不慮の事故で二年もの間眠っていたらしい。二年後の現在は私の知っている何もかもと違っていて、目眩がした。
私は、王国アルタイルの公爵家のひとつ、アシュベリー公爵家の長女として生まれ、九歳の頃から王太子殿下の婚約者として妃教育を受けてきた。寝る間も惜しんで努力を続けてきたつもりだった。
だがその座は、私が眠っている間に妹のローゼのものになっていたらしい。
「レイラ……すまない。お前はもう目覚めないかもしれないと言われて……やむをえない決断だったんだ」
ローゼが殿下の婚約者となった経緯を、言い訳がましく説明した両親を前に、ぽたぽたと涙を流す。なんだか笑い出したいような気分なのに、涙はすこしも止まってくれなかった。
……ルイス王太子殿下。
眼裏に、殿下の姿を思い浮かべる。冷たさすら感じる月の光のような髪に、何もかもを見透かすように鋭い蒼色の瞳。彼は私のことなんてすこしも好きではなかっただろうけれど、私は違う。私にとっては、淡い初恋の相手だった。
私たちはおそらく、それなりにうまく付き合えていたと思う。殿下は心と王族としての責務を切り離して考えられる方だったから、愛していない私のことも決して蔑ろにはしない立派な方だった。そんなところも、好きだった。
「だがレイラ……もうひとつ、話しておかなければならないことがあるんだ」
お父さまはどこか苦々しい表情で続けた。
これ以上、私に何を話さなければならないと言うのだろう。さっそく新しい婚約者でも見つけてきたのだろうか。
「その、殿下の婚約者となったローゼなんだが……冬の始めのころから、行方不明になっている」
「――え?」
……行方、不明? ローゼが?
今は春の始まりのようだから、冬の始まりなんてもうずいぶん前のことだ。そんなにも長い間ローゼの行方が知れないだなんて、ただごとではない。
お母さまは、肩を震わせながら大粒の涙を流した。
「ローゼ……どうして……」
溺愛するローゼが行方不明になっただなんて、お父さまとお母さまにとっては耐えがたいことだろう。お父さまはお母さまの肩をそっと抱き寄せて、慰めるように寄り添いあっていた。
「ローゼは……まさか、誘拐されたのですか?」
だとすれば、犯人はとんでもない大罪を犯している。両親の話によれば、ローゼは私の代わりに殿下の婚約者となっていたはずなのだ。王家に嫁ぐ予定の公爵令嬢を攫うなんて、到底許される話ではない。犯人が捕まれば、まず間違いなく処刑されるだろう。
決して仲がいいとは言えない妹だけれど、穏やかではない知らせに胸がざわついていた。
だが、続くお母さまの言葉は予想外のものだった。
「……違うのよ、レイラ、ローゼは――」
涙を飲んで、お母さまは今にも消え入りそうな声で続ける。
「――ローゼは、自らの意思で失踪したの。置き手紙が、あったのよ……」
「……なんですって?」
先ほどから信じがたい話ばかり重ねられて、目覚めたばかりだというのにすこしも心臓が休まらなかった。あまりの衝撃に再び目眩を覚える。
お父さまは、難しい表情で上着から一枚の紙切れを取り出した。震える手でそれを受け取れば、可愛らしい字で手紙とも呼べないような短い文章が記されていた。
――悪い夢を見たの。だからもう、ここにはいられないわ。さようなら、お父さま、お母さま。そして、大嫌いなお姉さま。
「ローゼ……?」
整っているが、すこし癖のある筆跡は、確かにローゼのものだった。指先でそっと文字列をなぞる。
……悪い夢、ね。
彼女が何を思って失踪という道を選んだのか、この手紙からは何もわからなかった。悪い夢は何かの暗喩なのだろうか。
「ローゼが姿を消してから、全力で行方を追っているが……今日まで有力な手がかりは何も得られていない」
「……公にはなんと発表しているのです?」
「病を得て療養していることになっている。……王太子妃となる令嬢が失踪したなんて、とてもじゃないが公表できない」
それもそうだろう。ローゼを溺愛しているお父さまやお母さまからしてみれば耐えがたい選択だっただろうが、王家が絡んでいる以上そう公表せざるを得なかったはずだ。
「ローゼの失踪を知っているのは、我々と王家だけだ。決して口外はするな」
「……はい」
ローゼの置き手紙をお父さまにお返しし、ふう、と大きな息をついた。ずきずきと頭が痛むように思うのは、何も体調だけのせいではないだろう。
……ローゼ、なんてことをしでかしたの。
昔から奔放なところがある子だったが、王太子殿下の婚約者という立場になっておきながら失踪するような人間ではないと思っていた。
だが、ローゼを責める気持ちと同じくらいに、彼女を案じているのも確かだった。
……無事で、いてくれるといいのだけれど。
なんの葛藤もなく彼女の幸せだけを願えるほど私たちは親しくないけれど、それでも、お腹が空いていたり、痛い思いをしたりしていなければいいと思った。ローゼには、華やかで煌びやかな場所がよく似合う。彼女をあの笑顔のままに輝かせることのできる人間がそばにいるなら、まだ救われるような気がした。
……ああ、でも、殿下とローゼが並ぶ姿を見ずに済むのね。
心の隅で、そう、安堵のため息をついて「私」が笑う。
「……っ」
思わず、両手で口もとを押さえつける。
……私は、今、何を……。
「レイラ、大丈夫か。気分が悪いのか?」
お父さまの問いかけに、ただ首を横に振る。
気持ちが悪いわけではない。ただ、ひどく動揺してしまっただけだ。
……私は、なんて自分勝手な思いを抱いてしまったの。
国の一大事とも言えるこのときに、私は、何を。
失踪した妹にまで嫉妬して、彼女がいないことに安堵するなんて。到底、許されることじゃない。
「……醜いわ」
かつて「完璧だ」と褒め称えられた公爵令嬢は、二年前に死んでしまったのかもしれない。
……こんなことなら、目覚めなければよかった。
体も心も、ひどく空っぽのような気がした。埋められない虚しさの原因はなんとなくわかっている。
……殿下。
私のほうを見ることのない、冷たい横顔が眼裏に蘇る。
今の私に残る確かなものは、燻るように微熱を持つ、殿下への淡い恋情だけだった。
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