第6話
「その線はない」
可能性は即座に切り捨てられた。
「もし恐喝の類い、またはイジメらしき事情があるのなら、とっくにその形跡や反応が取れている。登紀子さんの聴取だってその傾向は見えなかったと最初に報告されてるじゃないか。まさか忘れてたのか?」
「そうではないんですが、ほら、今どきのイジメって教師とか親にもバレないくらい陰湿なこともあるから」
「それはどれくらいの確度がある情報だ」
恋鐘が鋭い視線を送ってくる。
「イジメが大人にもバレないほど狡猾になってきている。そういうデータなり統計上の傾向があるのか?」
「え……いや、それは。どこかでそう聞いただけで」
「では君の忠告は信頼性が低いことになる。イメージとか憶測を前提としないことだ。物事の考察を歪めることになる。注意しなさい」
冷たい声と共に言い含められ、緑栄は思わず肩を縮めた。「……すみません」
まるで研究室のボスに研究成果を発表したときみたいだった。疑っていたわけではないが、やはり大月教授の弟子という凄みがある。
「話を元に戻すと、彼はイジメを受けていないよ。もし金品を要求されていたとしたら、しばらくは学校に通い続ける。人は恐怖で縛られると冷静な思考ができなくなり、相手の言いなりになることが多いからね。ましてや高校生、まだ子供だ。なんとか大人にバレないようにと体裁を取り繕うだろう。高校に入ってから引きこもるまで短期間だったことを考えると、その仮説は妥当じゃない」
「じゃあ、彼はやっぱり遊びのためにお金が欲しかったんでしょうか」
「お金の使い道が遊びだけとは限らないさ」
恋鐘の一言に緑栄は眉を寄せる。言われてみればそうだが、高校生の身分で何に使うのだろう。勉強道具? 誰かへのプレゼント代?
顎に手を添えて緑栄が考え込んでいると、恋鐘はうーんと伸びをした。
「この録音から感じた疑問、違和感の正体は君自身が考え続けるといい。答えは自ずとわかる。明日からVR映像を作るから、君も手伝いなさい」
「本当にあの録音だけで、作ってしまうんですか?」
「もちろん。大方の道筋は見当が付いた。そしてVR映像の素材はここで入手する」
恋鐘はおもむろにノートPCを持ち上げ、画面を見せつけてくる。
「鎌倉だ。洋平くんは幼少期にここに泊まったらしい。他にもいくつかあったけれど遠方だったから、さすがに旅費が高くなる。なのでここに行くことにする」
はぁ、と緑栄は生返事をする。突拍子もない発言は慣れてきたが、今回は疑問が多すぎてまるでついていけない。そういえば玄関先で聞いていたな、とぼんやり思い出すくらいだ。
「昼間には到着したいから、新宿駅に朝六時集合。わかったね」
「――え」
緑栄は思わず自分を指さした。
「僕も行くんですか?」
「当たり前でしょう。さっき手伝いなさいと言ったばかりじゃないか」
さも当然の如く告げられた緑栄は、しばし瞬きを繰り返すだけだった。
***
朝六時の新宿は、通勤ラッシュ前とはいえそれなりに混んでいる。地下にある駅構内で恋鐘と待ち合わせした緑栄は、人の往来の邪魔にならないよう壁際に立っていた。
あくびを噛み殺しながらスマホを眺める。さすがに眠い。なぜこんな時間に待ち合わせしなければいけないのか。昼過ぎに到着することのなにがいけないのだろう。というか時間外労働にあたるんじゃないのかこれ。
つらつらと疑問や不満を考えていた緑栄は、ふわりと漂う清潔な香りを感じた。
「待たせたな、緑栄」
恋鐘の声だ。挨拶をしようと顔を上げた彼は、しかし目を丸くするだけで言葉が喉から出ることはなかった。
恋鐘は、いつものスラックスにワイシャツという出で立ちではなかった。白を基調としたワンピースを着ている。ポニーテールに結んでいた髪も流していて、羽織ったベージュのカーディガンが上品さを醸し出している。極めつけにサンダルを履いて麦わら帽子を被っている。
どう見ても夏休みに遊びに出かけている淑女、だった。
「? どうした? 私の顔になにかついているのか?」
恋鐘が不思議そうに小首を傾げる。その顔も丁寧に化粧が施されていて、彼女の美形具合を引き立たせている。
「お、おはよう、ございます」
「うん。おはよう」
「えーと……」緑栄は後頭部を掻きながら逡巡した末、聞いた。
「なんですか、その格好は」
「ああ、これか?」恋鐘は自分の姿を見回した。スカートの裾をつまんでひらひら動かす。
「普段はスカートをはかないからな、珍しいと感じるのも無理はない」
スラックスかスカートかの違いを聞いているのではない。
「なにせモデルを雇う金も時間もなかったんだ。女性かつ背格好が近いのは私だけだったから仕方がない。今日一日だけの我慢だよ」
何を言っているのかさっぱりわからない。
困惑している緑栄をよそに、恋鐘は歩き出す。「さぁ指定の時間だぞ。電車に乗ろう」
先を歩く恋鐘に続いていく。長い髪をふわりとなびかせて歩く恋鐘は、その格好とスタイルの良さから構内にいる男女の視線を釘付けにしていた。
「うーん、やっぱりスカートは歩きづらいな。すーすーする」
不満を漏らす恋鐘は視線を気にする様子もない。一方で緑栄は彼女の後ろを黙って付いていくだけだった。隣に並ぶと自然に彼女と比較されるし、どういう関係なのか探られるだろう。隣を歩くだけの自信がない緑栄は、それこそ従者か手下のように後をついていくだけだった。
***
電車で1時間強ほど揺られて到着したのは、鎌倉で有名な砂浜だった。夏真っ盛りの気候だけあって、海水浴に訪れた客達でごった返している。
照りつける真夏の太陽に汗が滲んでくる。砂浜を眺めながら緑栄は、こんなところで何をするのだろうと熱された頭で考える。恋鐘はやはり何も説明せずにずんずんと歩いて行くばかりだ。
彼女は海水浴客から離れていき、近くに海の家や人気がないところまで進むと、おもむろに止まった。
「ここらへんでいいだろう。緑栄、カメラは持ってきてるな?」
「ああ、はい」
背負っていたリュックからビデオカメラを取り出す。恋鐘の事務所に置いてあったもので、今日持ってくるように指示されていた。
「そのカメラで私を撮影してくれ」
意図が読めないのはもう深く考えないことにした。緑栄は言われた通りにカメラの電源を入れて恋鐘を撮影し始める。
すると彼女はすっと手を差し伸べた。
なんの指示か分からず止まっていると「手を繋いで。それで歩く私を撮影しなさい」と言われる。
「え? 手を繋ぐ、んですか? なんで?」
「いいから早く。後で説明するから」
いますぐ説明してほしい。
しかし恋鐘は撮影が先だとばかりに手を差し出したまま口を閉じている。恋鐘はとかく自分のやりたいようにやる人間で、それ以外は後回しになるのだ。緑栄はこの短い時間で彼女の性格を掴みつつあった。そして残念ながら、折れるのは自分になることも薄々察している。
ビデオカメラを左手に持ち替え、右手で恋鐘の手を握ると――恋鐘が微笑んだ。
ドキリとするほどの淡く柔らかい感情に見惚れていると、恋鐘が緑栄を引っ張るようにして歩いていく。緑栄は唾を飲みながら、手を繋いだ状態で彼女を撮影する。
急に緊張してきた。内面はともかく、恋鐘はとても綺麗な女性だ。そんな女性と手を繋いで砂浜を歩くシチュエーションは、まるで恋人同士みたいだった。
「違う」
歩き始めてすぐ、恋鐘が硬い声音で呟いて止まる。
そして、緑栄の頭に手を置いた。
「こうだ」
緑栄はぐいと手で頭を押さえつけられ、されるがままに膝を折る形になった。
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