第19話 両親
自宅に帰ってきた私は、いつものように夕食の支度もできず、制服のままでベッドに突っ伏していた。あまりに衝撃的な話で頭の中は混乱を極めている。もちろんナギサから受け取った封筒もそのままだ。
心が寒い、寂しい、私が寂しいの? そうじゃない。ナギサの心の中に閉じ込められていた寂しさに触れてしまったからだろう。もうどんな顔をして会えばいいのか、電話やメッセージを送ることも今はとても考えられない。
窓からさす光はすでに夜のそれとなっていて、電気をつけていない部屋は薄暗く、まるで今の私の心の中のようだ。
恋が破れたことが失恋だというのなら、憧れが打ち砕かれたことはなんというのだろう。今の私の心境は、恋だと思いこんでいた憧れが、完全に砕け散ったと言えるだろう。
しょせんはまだ子供で、ほんの少し背伸びしてみたかっただけなのに、手痛い傷を負ってしまった。かといって、ナギサが聞かせてくれた過去のことはすべてが嫌なものではなく、まだ私の知らない本当の愛があったようにも思える。
それにナギサ自体に幻滅したとかそう言う気持ちでもない。どちらかと言えば、元々遠い存在だったものが、さらにはるか遠くへ行ってしまった。置いてきぼりにされた気分というのが適切か。
悲しいわけでもないので涙は出ない。でも胸の奥はざわついていて寒々しい。このまま全身が冷たくなって、心臓も止まってしまい、命が尽きてしまうかもしれない。あり得ないことだけど、そんなことまで考えてしまう。
その時、玄関を開ける音がした。帰ってきてから何もしていないうちに、お父さんが帰ってきてしまった。早く夕飯の支度をしないといけない。男手ひとつでずっと私を育ててくれているお父さん。家に帰ってきたら何もせずに疲れを癒せるよう、のんびりさせてあげることくらいしかできないのだから。
ようやくベッドから起き上がろうとした私の手に、あの封筒が触れた。部屋から出る前に恐る恐る開けてみる。
するとそこには…… 一枚のしおりとメモが一枚入っていた。
『Wie wert ich mir selbst werde, seitdem sie mich liebt!』
『さようなら、あさみ。
これはゲーテの詩で僕の好きな一節です。
日本語訳:あの人が私を愛してから、自分が自分にとってどれほど価値のあるものになったことだろう』
ゲーテなんて無縁な私には、その言葉の真意はわかりかねたけど、言葉の美しさはわかる。でもそれよりも私の心を貫いたのは、言葉の美しさに負けていない美しい文字だった。
しおりサイズという決して大きくない用紙の上へ、緻密に配置された紋様のような文字たち。まるで植物が枝を伸ばしていくように、自由で繊細で軽やかな曲線群、それにブレの無い直線は逞しく力強い。
それは、今まで見たどんなカリグラフィ作品よりも、美しく大胆で素晴らしいものに感じた。
でもなんだか見覚えがある気もする。この曲線最後の抜き方…… 払っているようだけど精密な止めにも見えるこの癖……
私は部屋を飛び出した。リビングにはようやくネクタイを外したばかりの父が立っていた。
「ただいま、麻美。
部屋の電気もつけないままで、何かあったのか?」
「ううん、なんでもないの。
それより……」
私は溢れそうになる涙をこらえながら父へしがみつく。もう長いことこんなことしていなかったからか、お父さんが戸惑っているのが伝わってきた。
「あのね、お父さん。
もしかしてお母さんってどこかで生きてるの?」
父はしばらくの間無言だった。そして私の背中に両腕を回し、しっかりと抱きしめるとポツリと一言発した。
「いいや、母さんはもういない」
私はこらえきれなくなった涙を遠慮なく流し、声を上げて泣いた。
私は父の彼氏に恋をしました 釈 余白 @syakunarou
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