第11話 退屈な水曜日

 夢にまで見たカリグラフィーのペンセットを手にしてからというもの、毎日何も描かない日はなく下手をすると学校でノートを取る際にも使いそうな勢いだった。


 学校から帰ってきたらすぐに箱を開け、練習用紙を前に試行錯誤の日々だ。相変わらず最初に描くものが、録画してあるテレビ番組の献立と材料の一覧なので生活感丸出しだけど……


 材料を描き終えたら冷蔵庫の中身とにらめっこしながら買い物リストを作る。それを翌日お父さんが帰りに買ってきてくれるのだから手は抜けない。


 それが終わったら夕飯の支度だ。昨日買ってきてもらっていた材料で昨日の番組と同じように作っていくと、まあまあそれっぽいものが出来上がるのだ。


 お父さんの分を盛り付けしてからテーブルへ並べてから、昨日描いておいたメニューをおもちゃのイーゼルへ載せて完成である。


「これでよしっと。

 今日は野菜の切り方がいまいちだったかな。

 次おばあちゃんのところへ行ったときにコツを教えなおしてもらわなきゃ」


 もう独り言は気にしないことにした。余計なところに気を使うことより、今は少しでも多くの文字を描きたいし、なるべく長時間集中していたいのだ。


 私はお風呂へ入ってから食事を済ませ、またリビングのソファへ座った。目の前には先ほど出したままの道具が並べられている。


 見本に沿って丁寧に、それでいて滑らかに描いていく。自分で描いておいて図々しいが、そこには日常とは違う世界が広がっているように感じる。そう、まるで洋書の表紙のようにステキな文言が並んでいるように見えるのだ。


 本当は練習用にアルファベットを描いているだけなんだけど、それがなにか意味を持つように見えてしまうのが、きっとカリグラフィーの面白さなんだろう。


 いくら描きつづけても飽きることがない。そんなことを思いながら夢中でテーブルに向かっているうちにお父さんが帰ってきた。


「ただいま、今日もインクの匂いがすごいな。

 よほど気にいったんだろうけど勉強も忘れないようにしないといけないよ」


「おかえりなさい。

 大丈夫、ちゃんとメリハリつけてやってるから心配いらないよ。

 今日は宿題もないしね」


「今まで成績に問題はないから心配しているわけじゃないんだけどな。

 あまり一つの事に夢中になりすぎず、色々なものに触れるのも大切だと思うんだ。

 知識は人を豊かにするからね」


 なるほど、そう言う考え方もありだろう。お父さんはガミガミいうことは無いけど、何かにつけて考えることの大切さを訴えてくる。それを聞くと何をどう考えたらいいのか悩んでしまうこともある。


「いつも難しいよね、お父さんの言うことはさ。

 考えることが大切なのはわかるんだけど、趣味に没頭するだけでもすでに時間が足りないよ」


「あはは、もちろんそれでもいいさ。

 でもたとえば、花を眺めるだけでもそのカリグラフィーの参考になるだろ?

 まあうちはマンションだからガーデニングってわけにもいかないけど」


 これはチャンスだと、私の勘は告げていた。なぜかわからないけど、最近のお父さんは私の希望をやたらに聞いてくれる。まあ以前からもそうだったけどここ最近は特にそうなのだ。


 私は調子に乗っておねだりをしてみる。


「そうだよ、そういうわけにはいかないよ。

 だからお父さんが色々なものに触れさせてくれないとね」


「おやおや、こりゃやぶへびだったな。

 それじゃ週末はどこかへ出かけようか」


「うん!

 私、ずっと前に連れて行ってもらったバラ園にまた行きたいな」


 お父さんはニコニコしながらいいよと言ってくれた。ちょっと遠いけど朝から出かけていけばゆっくり見られるだろう。前に行ったときは帰りにお蕎麦を食べてから帰って来たっけ。


 夕食が終わるのを待ってあと片付けをした私は、出しっぱなしだったカリグラフィーの道具も片付けて寝る準備に入った。


 歯を磨きながら鏡を見ると、右手の指先にインクが飛んでしまっている。そのインクの付着を見ながらやっぱり夢中になりすぎていたかもしれないと、一人で笑いをこらえるのだった。



◇◇◇


 週なかば、ホッと一息つける水曜日がやってきた。


「ハルは今日もピアノあるんでしょ?

 まっつんも部活だしなあ、また文房具屋に行くくらいしかないか」


「あーちゃんも何か習い事やったらいいのに。

 水曜日はどうしたって暇なんだからさ」


「うーん、でも家に帰ればやることはあるから習い事はいいや。

 私だってそれなりに忙しいんですよ?」


 おどけながら暇ではないことをアピールすると、ハルははいはいと気の無い返事をしながら笑った。結局いつもと同じような流れで下校途中に別れ、私は一人でターミナル駅へ向かう電車に乗った。


 さてどうしようか。乗り換えをするのに駅を出る必要はないが、今帰るといくらなんでも早すぎる。なんでうちの学校は水曜午前授業なんだろう。


 水曜が五時間なり六時間まであればきっと土曜日は毎週休みにできるだろう。半端な隔週休よりも完全土日休みが嬉しいのは明らかだ。


 そんなことを考えつつ、乗り換えの改札へ向かっていた私の視界に一人の男性が入って来た。その姿を見た私はついさっきまで持っていた持論をあっさりとひるがえす。


『今日が午前授業だけで本当に良かった!』


 目指していた改札から進路を変更し、駅を出る改札へ向かう。早く、早くしないと行ってしまう。焦った私は思わず声を出してしまった。


「ナギサ! 待ってナギサ!」


 それは独り言ではなく、明らかに大声で誰かを呼ぶ声だった。何事かと周囲がこちらを見たりギョッとした態度を取ったりしたのはわかったが、私はそれに構うことなくただ一点を見つめていた。


 ほんの少し先にいる、改札を出たばかりの背中が振り向いた。色鮮やかな山吹色のシャツが、周囲のその他大勢とは違って輝いているように見える。


 私はその姿を見ながら、自分でも信じられないくらいの笑顔で手を振った。

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