第8話 いい日になりそうな予感

 今日は土曜日で学校も会社も休みだ。この間の約束通り、今晩はあのちょっと寂れた感じの串揚げ屋へ連れて行ってもらうことになっている。夕方には出かけられるよう午前中に宿題を済ませ準備万端だ。


「ねえお父さん、あまり飲んで帰ってくることってないけど、接待とかってないの?

 うちの商品をよろしくお願いします、まあ一杯どうぞ、みたいなやつ」


「ははは、麻美はテレビドラマの見過ぎじゃないか?

 いまどきそんなことする会社は少ないぞ。

 父さんが飲んでくるときのほとんどは部下の愚痴を聞くためさ」


「愚痴…… かあ、大変そう。

 きっと社会に出ると嫌なことでもやらなきゃいけなかったり、言うこと聞かなきゃいけなかったりするんだろうね」


「現代はストレス社会と言われてずいぶん経つからね。

 自由に生きるというのはなかなか難しい時代だよ……」


 ん? なんで急に寂しそうになったんだろう。もしかして私がいるから自由が少なくなってるとかあるのかな? ちょっと気になるけどわざわざ確認するのはちょっと怖い。


 リビングには、バラエティー番組の笑い声が聞こえるだけになってしまった。しかもこれいつやった奴だろう。着物を着ている人が大勢出ているから、お正月番組の再放送かな。


「お父さんさ、新しいスマホ慣れた?

 私はハルって友達にいろいろ教わって結構使えるようになってきたよ」


「今回の機種は、その前まで父さんが使っていたものとほとんど同じだから大丈夫さ。

 麻美も慣れてきたなら良かった。

 でもむやみやたら知らない人とやり取りするんじゃないぞ?

 今時はスマホに関わる事件が多いから心配だよ」


「私は平気だよ。

 知らない人とやり取りしたり、まして会いに行ったりなんてしたくないもん」


 そう答えてはみたものの、私の心はチクリと痛んだ。


 ナギサ……


 まだ一度しか会ったことがないし、話をしたのもほんの数十分だった。それなのに今も心のどこかに引っかかってる。これが初恋ってやつなんだろうか。


「少し早いけど出かけてみるか。

 その辺ぶらぶらしながら洋服でも買ってあげるよ」


「洋服かあ、あんまり欲しいと思わないな。

 それよりも…… 新しいペンが欲しいんだけど、それじゃダメ?」


「また万年筆か?

 別に買ってやるのは構わないけど、そんなにたくさん集めるなんて……

 まあ好きなんだから仕方ないな」


「やった! お父さんありがとう」


 なんだかよくわからないどさくさで買ってもらえることになってしまった。でも中学生だからといっても、ちょっとしたワンピースなら一万円前後はしてしまう。それだけ出すなら安いカリグラフィーペンとペン先いくつかがゆうゆう買えてしまう。


 私にとってどちらが有用で価値のあるものかというと断然後者である。ついでにボトルのインクも数色おねだりしちゃおう。誕生日はまだ遥か彼方なのに、今日はすごくいい日になりそうな予感がした。



◇◇◇


 すごくいい日になりそうな予感は大外れだった。苦笑いしながらのんびりと歩いていく父さんと、その後ろをとぼとぼとついていく私。


「残念だったけど仕方ないじゃないか。

 まさか建物ごと無くなってるなんて知らなかったんだよ」


 まさかもまさかだ。今日は臨時休業とかならまだわかるけど、よりによって一帯にあった雑居ビルがまとめてなくなっていたなんて。残されていたのは建築計画の立て看板のみだった。


 しかもその前に立ち寄ったいつもの百貨店では、狙っていたカリグラフィーペンのセットが売り切れになっていて、しかもメーカー廃盤で次の製品が出る予定もないと言われてしまった。


「まあそう不機嫌にしないでさ、寿司でも食べに行こう、な?

 ちゃんと回らないところに行こうじゃないか」


 私は力なく頷いた。別に思い通りに行かなかったから不機嫌になっているわけじゃない。どうしたってがっかりするのは仕方ないとしても、その落胆を表面に出してしまい、お父さんに気を遣わせている自分が恥ずかしいのだ。


 それでも、久しぶりに食べた回らないお寿司はとてもおいしかった。好物のアオリイカは口の中でねっとりと甘い絶品だったし、勧められるまま初めて食べてみたシャコも悪くない。


 こうやってお父さんと仲良く一緒に出掛けることが何より幸せ、それでいいじゃないか。私は必死に自分へ言い聞かせてみる。


「そうだ、ああいうものは大体が輸入物だろう?

 父さんの部署は玩具担当だから扱ってないが、別部門で文房具の取り扱いがあるかもしれない。

 一応聞いてみるからな、ただ、あまり期待はしないでくれよ?」


「本当に! どこか取り扱いがありそうなお店がわかるだけでもいいの。

 買ってもらえるのに贅沢は言わないけど、やっぱり事前に触れてみたいしね。

 お父さん、お願い! 期待してるよ」


 お父さんはにっこりと笑ってから、待たせていた小肌を箸でつまんで口へ運んだ。

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