私は父の彼氏に恋をしました

釈 余白

第1話 出会い

 それを見た瞬間、青天の霹靂という言葉が頭に浮かんでいた。


 せいてんのへきれきとは古い言葉らしいが、現代でも小説等でしばしば使われている表現である。それは晴れた空に突然の雷という意味合いの言葉であり、予想しない出来事が起こると言うことだ。


 言葉としては知っていたものの、それを自分で使うなんて考えたこともなかった。


「お父さ……」


 学校帰りに立ち寄ったターミナル駅で父の姿を見た私は、その横顔へ向かって声をかけようとした。しかしそれは思ってもみない出来事によって遮られてしまったのだ。


 向かい合っている背の高い男性、クリーム色のセーターに紺のパンツは無難な組み合わせだけど嫌みも癖もない。広い肩幅に身長の半分以上はありそうな長い脚。父と向かい合っているその表情は無邪気な子供のような笑顔だった。


 スーツ姿ではないので父の部下ではなさそうだ。とするとたまたま会った知り合い? しかしそれは些細なことだ。


 何より重要なのは、その父の知り合いと思われる見知らぬ男性が、私の理想にピッタリだということなのである。


 そう、私は今まさに、恋に落ちる予感を感じていた。



◇◇◇



 駅ビルは若い人たちに人気の百貨店でもある。その出入口で立ち話をしている父は、どう見てもその場にあっているとは言い難い風貌である。


 地味な吊るしのスーツを着て、おしゃれとは程遠いごくごく普通のサラリーマン。仕事はそこそこできるらしく部下の信頼も厚いらしいが、それが本当かどうかはわからない。


 その父が笑顔で話をしている彼、むろんその彼も朗らかで素敵な笑顔である。いったい誰なのだろうか。もしモデルか俳優だと言われたなら素直に信じるだろう。


 私は百貨店内にある文具店で万年筆のインクを買い求めたところだった。ここには様々な種類のインクが取り揃えてあり、もちろん万年筆やペン先の品ぞろえも豊富なのでしばしば立ち寄っているのだ。


 一通り見て回った後、いったん混雑する店内から外へ出た私は、あとはもう家へ帰るだけだった。それなのに足が動かない。数十メートル先にいる名も知らない男性に視線を奪われ、その場で立ち尽くすことになってしまっている。


 しばらくすると、その男性と父が会話を終えてそれぞれ帰路につくようだ。時間からすると父は会社へ戻るのだろう。


 ではあの男性はどこへ行くのだろう。駅の近くには大小さまざまな店があり、その中にはもちろん飲食店もあるし繁華街もある典型的な都会のターミナル駅だ。近所に住んでいるかもしれないが可能性は低そうだ。


 でもきっと小奇麗なマンションに住んでいて、おそらく家具は白基調だろう。大きな窓に遮光カーテンが下げてあり、大きなテレビにソファーがあるような気がする。


 もしかしたら猫を飼っているかもしれない。彼が帰宅して玄関を開けるとかけよってきて餌をねだるのだ。そして猫に向かって満面の笑みを浮かべながらのど元をなでてから、ちょっと高級そうな缶詰を開けて餌皿にとりわけてあげるのだ。


 そんな妄想を一瞬のうちに駆け巡らせた私にそれは再度訪れた。つい先ほど人生で初めて感じたこと、そう、青天の霹靂再び。


 父と彼との別れ際、父が小さく差し出した手のひらに、彼が上から自らの手のひらを重ねたのだ。それはほんの数秒の事だったが、名残惜しさを感じさせながら徐々に手のひらから指先へと離れていく。


 最後は指先と指先が付かず離れずとなって、糸がプツンと切れるように二つに戻った。急に現実に引き戻された私は、父を追って声をかけることもできずただ立ちつくすだけだ。


 しかし人の波の中でいつまでも立っているというのも難しく、歩いてくる人とぶつかった私はようやく現実に帰ってきた。


 そしてほんの少し考え込んでから、私、中原麻美は、探偵の真似事のようにクリーム色の後ろ姿を追うことにした。

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