「このまま……、」

 眠りたい。

 その台詞を口にすることができす、薫は口をつぐんで瀬戸の胸に額を寄せた。

 まだ、性交をしていなかった。この身体は、そのために瀬戸に買われているのに。

 「このまま?」

 瀬戸が、片手で薫の頭を包み込みながら先を促す。

 いいえ、とだけ薫は答えた。それ以上なにも言えなくて。

 風がさらに強くなる。窓の外はさながら春の嵐だった。

 お互い風の音に耳を澄ませるような、しんと深い沈黙が落ちた。

 その沈黙の後、先に口を開いたのは瀬戸だった。

 「俺は、蝉に妬いてるのかもしれない。」

 静かな声だった。沈黙に、静かに澄んだ水を注ぐみたいに。

 「蝉がきみについて知っていることは、俺も全部知っていたい。きみと蝉がしたことは俺も全部したいし、きみが蝉に頼っていることがどうしてももどかしい。どうして俺じゃないんだろうって。」

 蝉と一緒に女の人を捜しているんでしょう、と、囁くように瀬戸が問う。

 薫は迷いながらも頷いた。

 「俺に言ってくれればいいのにって、思ってるよ。」

 「でも、観音通りのことだったら蝉さんのほうが……、」

 「俺も孤児だった。観音通りにいたこともある。」

 「え……?」

 「きみと同じだよ。女に拾われてここで暮らしてた。……俺の場合は、ろくな女に拾われなかったけどね。」

 何度性病を伝染されたか、と、瀬戸は吐き捨てるように言った。

 「だから俺のほうが蝉よりも、きみの必死さとかあの頃の観音通りに様子とか、理解できる部分は大きいと思うよ。……あんな女でも、時々恋しくなる夜がある。」

 あんな女でも、時々恋しくなる夜がある。

 たまらなかった。その切なさは、多分薫の切なさと同じ色をしていた。

 ぎゅっと瀬戸の身体に腕を回し、薫はとぎれとぎれの言葉を紡いだ。

 「だとしたら余計に、あなたには頼ったりできない……。忘れるべきだと思うから。忘れられるなら、この通りにいた子供時代なんて、忘れるべきだと思うから。」

 また沈黙が落ちた。

 窓の外で風だけが轟々と哭いている。

 その冷たい沈黙の中で、瀬戸は薫に口づけをした。それは、長い長い口づけだった。

 「……やっぱり好きだな、きみのこと。」

 耳元の囁きに、薫は思わず泣き出しそうになった。男娼と客の戯れではなく、瀬戸は本気なのだと心の深い部分で理解したからだ。

 「俺も、瀬戸さんのこと好きです。」

 告げる声は震えていた。誰かを好きだと口に出して伝えるのは、人生でまだ二度目だったし、一度目の女は薫の前から消えていた。

 「今日は、このまま眠ろうか。」

 瀬戸は薫をひょいと抱き上げると、布団の上におろした。

 「眠ろう。今日は悪夢を見ずにすむ気がするんだ。」




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