観音通りのメイン通りまでくると、蝉はするりと薫の手を放した。

 その唐突な動作についていけず、薫は蝉の手を目で追った。吹き抜ける夕風で、手のひらを濡らす汗が冷えていく。

 「蝉さんは、」

 「ん?」

 先を促されて、薫は言葉に詰まった。なにかを考えがあって口にした名前ではなかった。ただ、離れた手の分、なにかを近づけないといけないような気がして。

 「蝉さんは……、」

 「うん?」

 「いつから観音通りにいるんですか?」

 なんとか不自然ではない言葉を絞り出せた、と安堵する薫を見て、蝉は目だけで少し笑った。一連の薫の心情の流れを読みとったみたいな目の色をしていた。

 「15からだからもう5年だね。残念だけど俺は孤児は孤児でも観音通りには縁のない孤児だったから、10年前のこの通りのことは知らないよ。」

 「孤児……だったんですね。蝉さんも。」

 「まぁね。あの頃は自分が自分が男女郎やるなんて思ってもみなかったよ。真面目に勤労してた。」

 「靴磨きか煙草売りですか?」

 「おしい。新聞売り。」

 新聞売りかぁ、と、薫は何度か頷いた。

 「観音通りを出て孤児院に入ってから、靴磨きとか煙草売りとか新聞売りとか、いろんな商売している子がいて驚きました。俺、物乞いと万引きくらいしかできなかったから。」

 「終戦のとき6歳とかでしょ? まぁ厳しいよね。」

 「厳しかったですねー。」

 かつての孤児どうしは、目をみかわして口元だけで微笑んだ。

 あの頃を本気で笑い話にできるようになるには、まだ10年ではきかないほどの時間がかかる。

 「ん? ていうか、あんた孤児院にいたんだよね。観音通りにはいつからいつまでいたの?」

 「終戦の年の7月から8月です。」

 「一ヶ月だけなんだ?」

 「はい。」

 でも、俺が家族って言えるひとのなかで、生きている可能性があるのは彼女だけなんです。

 言うと、蝉は細く笑って薫の肩を叩いた。

 分かるよ、とでも言いたげな仕草だった。多分、蝉の場合はもう、家族と言えるひとのなかで、生きている可能性があるひとは誰ひとりいないのだろう。

 「ていうか、一ヶ月って結構短いよね。なんか事情があって孤児院に入ったの?」

 ええ、まぁ、とだけ、曖昧に薫は答えた。

 蝉はそれ以上問いを重ねようとはしなかった。



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