街歩き 編

 運命(ハゲ)を置き去りにすべく、後ろ向きに生きると決め、手始めに後ろに歩き出した茂であったが、これが中々に難しい。動き自体は何てことはないのだが、一番のネックは、やはり後ろが見えないと言う事だ。つまり、怖いのである。


 試しに部屋の中を後ろに歩いてみた。家具の位置は把握しているのに、フラフラッと椅子やテーブルにぶつかる。前方が未確認の状態だと、不安でシッカリと歩けないのだ。


 おっかなびっくりでは、進むスピードも遅い。勝手知ったる部屋の中でこの有様では先が思いやられる。しかし、運命(ハゲ)に捕まり、ゴリゴリ生え際を削られる事に比べれば、そんな恐怖は恐怖とは呼べぬ。運命(ハゲ)を置き去りにするためには、乗り越えなければならない最初の試練なのだ。


 ふと時計を見ると、針は午後四時を指している。今日はファミレスのバイトが入っていた。いつもの倍の時間を見積もって、茂は早めに家を出る事にした。


 靴を履き、後ろ手に鍵をあけ、ドアノブを回す。部屋を出るのも一苦労だ。通路を抜け、アパートの三階から階段を後ろに下りる。いつもなら、十秒もかからず下り切るのだが、今日は時間を要する。茂は初めて手摺を使っている自分に気付いた。


 やっとのこと階段を下り終わると、ちょうど部屋から出て来た一階に住む大家と鉢合わせた――厳密に言うと、すれ違ってから大家の顔が視界に入った。後ろに歩いているから。


 軽く会釈して、歩き出す、後ろに。大家はずっとコチラを見ている。車やバスに乗って後部座席から振り返って見るならまだしも、歩きながら見送られるのをずっと見続けるのは、いささか照れるというものだ。


 後ろ歩きで住宅街を抜け、大通りへと出る。歩く向きが違うだけで、いつもの景色が違って見えるのが不思議だ。なぜだか、脳裏にドナドナが流れた。



 最寄り駅に近づくにつれ、道行く人々の視線を強く感じるようになった。今や茂は、多様性の権化である。否が応でも目立つ。


 なにあれ、ヤバくない? ユーチューバーの撮影? キモい酔っ払い!

 

 好奇の目に晒され、陰口を叩かれる。心なしか後ろへ歩く速度が上がる。


 と、次の瞬間、ドスン!と、背中に衝撃が走った。えっ?と振り向くと、電柱が聳え立っていた。幸いにも、背負っていたリュックがクッションになって、ダメージはない。今ので休憩中に食べようと思っていたタマゴサンドは完全に潰れたに違いないが、リュックの有用性に気付けた事は大きい。落ち着きを取り戻し、再び後ろに歩き出す。


 横断歩道での信号待ちは、周りに合わせる。早とちりした人の動きに釣られて車道に飛び出しては目も当てられない。


 そんなこんな、いつもよりだいぶ時間をかけ、ようやく駅に到着した。当然、エスカレーターにも後ろ向きで乗る(よい子はマネしちゃいけない)。


 改札も後ろ歩きで通過する。行き交う人々の怪訝な顔にも慣れてきた。やって来た電車に乗り込み、進行方向と逆を向いて二駅。


 余裕を持ったつもりだったが、どうやら遅刻だ。ファミレスに着いた頃には、入り時間を五分程過ぎていた。背中で入口の扉を押し開け、そそくさと後ろ向きに事務所へと向かおうとすると、呼び止められた。


「小山内クン、今何時だと思ってるの?」


 店長の平田が、オールバックの髪を撫でつけながら、御盆を小脇にコチラに鋭い視線を投げかけている。


「あ、すみません」


 ちょっと入り時間に遅れただけで、始業時間には間に合ってるんだから、いいだろう。人望は少ないクセに、無駄に毛量だけはあるので、ヘルメットみたいなオールバックしやがって。茂は心の中で毒づいた。


「急いでホール入って」


 黙れ、どフサが! 悪態をついているのに、なんか褒めるような形になるのが納得いかない。


 はい、と言い残し、後ろ手に事務所のドアを開けた。

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