本文
夢の中で誰かに唇を奪われた気がした。
意識が覚醒する。目を開けばそこには雲一つないオレンジ色の空があった。耳をすませば波の音が聞こえてくる。鼻で呼吸すると潮の香りが鼻腔をくすぐる。手のひらを握ると砂粒のざらついた手触りが良く分かる。口内にまとわりつく強烈な塩味とヌメヌメとした食感が不快だ。
「ぶふぇっ!? 息苦しいと思ったら口の中に海藻が入ってやがった! クッソ、マジ最悪だ!」
口から吐き出した謎の海藻を掴み取り海の方に思いっ切り放り投げると、目に入ってきたのはどこまでも続く水平線と白い砂浜だった。
「……海?」
あれ?
俺は何で海岸なんかにいるのだろう?
というか、ここは何処の海だ?
それに俺はここで何をしていたんだ?
そもそもどうやって来たんだ?
「……海水浴なら水着くらいは着ている、よな?」
自分の服装、高校の制服。しかも下半身が微妙に濡れている。間違いなく海に来る格好ではない。というか今って夏だったっけ?
「……なんか頭が重いな。身体も妙にダルいし。めちゃくちゃ長い間眠っていたみたいな感じだ」
何かしらの情報を得ようと砂浜を散策する。匂いからしてここは間違いなく海なんだろうけど……なんだろう、何か違和感がある。
「日本にしては海が綺麗な気がする。もしかしてここ、海外なのか?」
違和感。違和感。違和感。思考を巡らせると違和感の交差点が頭の中で大渋滞を引き起こしていた。
「俺の名前、
記憶を呼び起こすと頭の中で黒い暗幕が昔の思い出を覆い隠した。
「……なんで、思い出せないんだ? 意味わかんねーだろ」
顔も名前も思い出せない。妹がいたことはちゃんと覚えている。なのに、なんで? 父親と母親も、友達も学校のクラスメートも存在はちゃんと覚えているのに名前と顔が何も思い出せない。
「……なんだよ、これ。俺の頭どうかしてんのか?」
まるで大切にしていた思い出のアルバムを目の前でライターの火で燃やされたかの様な喪失感。思い出せない恐怖と焦りが俺の足をがむしゃらに走らせていた。
「なんでも良い、誰でもいい。何か、何か手掛かりになる物! なんでも良いから!」
海とは真逆の方向、薄っすらと見える高層ビルの影を目指して俺はひたすら走り続けた。
「はぁ、はぁ、はぁ、……」
砂浜で全力ダッシュ。当然だが息が上がる。少なくとも無人島の類いではない。建造物がある、看板もある。間違いなく人はいる。どこの海岸かは知らないけど間違いなく
「……なんだ、この文字? 韓国語かなんかか?」
目に入った赤い看板の文字列を読もうとしても見覚えのない文体と記号が羅列されているだけで何一つとして現在地を知る情報は得られなかった。
やっぱりどっかの国なのか? なんで海外なんかに?
見知らぬ文字を見て。ふと思い出す。
ポケットにある異物感。この時になって俺はようやくスマホという唯一の手掛かりを思い出した。
「そうだスマホのGPS。位置情報サービスで……って、電源入らねーじゃねーか。クッソ!」
スマホが海水で濡れていた。おそらく水没して故障したのだろう。金をケチって防水仕様のスマホを買わなかったことが見事に仇となっていた。つーか、そこら辺の無駄なエピソードだけはちゃんと思い出せるんだな。ますます意味が分からん。記憶喪失にしても設定がガバガバすぎんだろ。
「つーか、いい加減に現地民の一人や二人くらいエンカウントしても良いだろうが! どんだけ田舎なんだよこの海岸! あそこにある高層ビルはなんなんだ!」
俺は溜まりに溜まった文句をぶち撒けてビルを凝視する。穴が開くくらいビルを凝視した後で背後を振り返る。空を観察すると太陽の位置がまだ水平線から半分も顔を出していない状態だった。周りの景色をよく見渡せば周辺がまだ薄暗いことに気がつく。
「日本じゃないならここは地理的にどのあたりなんだ? それにあの太陽は朝日なのか夕日なのか分かんねえ。マジでどっちだ?」
深呼吸をして荒れた呼吸を整える。深く息を吸い込むとなんとも言えない清々しさを感じる。まるで朝の澄んだ空気の様な。
「……仮に今が早朝だとして、人がまだ活動していない時間帯なら、ここで待ってればそのうち人が通る、よな?」
不安を紛らわせるために独り言を垂れ流すのも正直言って辛くなってきた。俺の人生でこんなにも人が恋しいと思ったことが未だかつてあっただろうか。良く思い出せないけど、おそらく人生で初めの経験だろう。
「いや、
建造物の影を目指してさらに移動すると、俺の進行を妨害するかの様に重厚な壁がそこに
「……なんだ、この壁。堤防か何かの類か?」
壁の長さを目で測ると、どうやら海岸の端から端まで抜け目なく同じ物が出来上がっている様子だった。とてもじゃないが自力で登れる高さではない。これでは向こう側に行く事も出来ない。
「まさか、巨人かなんかでも進撃してくるわけじゃあるまいし。こんな城壁みたいな設備、完全に税金の無駄遣いだろ。いや、知らんけど」
というか、こんな摩訶不思議な海岸は見たことも聞いたこともない。ここは本当に俺の知っている世界なのだろうか?
「…………」
異世界。その『可能性』を考えた途端に鎮まりつつあった俺の心臓が再びバクバクと鼓動を始めていた。
「いやいや、待て。今どき異世界とか、やり尽くされてむしろ廃れ始めているレベルだぞ。そんなバカなシチュエーションが現実にあってたまるか」
読めない文字、見知らぬ土地、朧気な自分の記憶。否定的な要素を集めたくても出てくるのは現実味のない肯定的な事実ばかり。
「は!? もしかして……俺の行動って異世界ものに良くある序盤のテンプレムーブなのでは? この既視感はあれだ、ラノベで読んだことあるやつ!」
そして相変わらず記憶喪失の設定がガバガバだった。変なことばかり思い出すなよ俺の残念頭脳……。
「誰かー! 誰かいませんかー! ヘルプミー! アイアムジャパニーズ!」
度重なる心労で完全に情緒が不安定になっていた。俺は助けを求めてただひたすらに壁に向かって叫び続けた。
「誰か助けてください!」
そんな俺の切実な願いが天にいる神に届いたのか、壁の向こう側から男性らしき人の声が微かに聞こえた。
「そこの君! どうやって危険区域に入った!? そこは危ないから早くこっちに来なさい!」
壁の中にある小窓からひょっこりと顔を出したのは間違いなく声の主なのだろう。ただ、その顔があまりにも
「君、見ない顔だね。年齢は? 職業は? というか、君は……一体何の種族なんだい?」
俺では気付くことの出来なかった壁の隙間にある出入り口から出てきたその『人物』は間近で見るとますます理解不能な存在だった。もはや言語が通じるという不自然さは違和感としてまるで機能していなかった。
「二足歩行の犬が日本語喋ってる……」
見知らぬ土地で最初に出会った人物は不審者極まりない俺に優しい声で職質してきたリアル犬のお巡りさんだった。
★★★
「いや、異世界なら最初に出会う人物は美少女じゃなきゃダメでしょ。流れ的に考えて」
青い制服を着たリアル犬のお巡りさんに連行されて数分後。たどり着いた先は壁の向こう側にある駐在所らしき簡素な建物だった。
「君はさっきから何を言っているんだい? 異世界だの記憶喪失だの。もしかして僕をバカにしているのかな? 僕はこう見えても駐在軍人としてはそれなりにエリートの部類なんだけどな」
「あっ、警察官じゃなくて軍人さんなんですね。駐在軍人、なるほど。この世界にも軍隊があるんですね」
「そうだよ。僕はゴエティア共和国の陸軍に所属しているんだ。国からここクリフォトシティの湾岸警備を任されているのさ。犬だけにワン岸警備、なんてね」
「…………」
「そこは笑うところだよ!?」
「いえ、すいません。あまりにもオヤジギャグが寒過ぎて思わずスルーしてました」
「失礼なっ! 僕はまだ二十代なんだけどな!」
「すいません。顔が犬だと年齢の判別がつかないんです」
「君ってナチュラルに失礼だよね!?」
職務質問という形で犬顔のお巡りさん改め犬の軍人さんの話を聞いた限り、ゴエティア共和国もクリフォトシティも聞いたことのない地名だった。
日本じゃないのは確定として。問題はここが本当に異世界なのかどうかだ。
会話の最中で犬の軍人さんを観察していたけど……鼻や耳の動きからしてどうやら特殊メイクの類ではなく実在する犬人間の様だ。毛の質感とか表情筋の動きとか、作り物にしてもクオリティが高すぎる。ここがハリウッドじゃないなら間違いなく本物だろう。それに茶色い毛と顔の輪郭がどことなく日本の芝犬に見えなくもない。だからだろうか、俺は犬の軍人さんに謎の親近感を覚えていた。
もうこれ異世界確定演出だろ。ソシャゲのガチャなら虹色の光とか出てるパターンだ。
「ところで駐在さん」
「なんだい?」
「ちょっとそのもふもふの毛を触らせてもらっても?」
「君は何を言っているんだ!? 生憎と僕に同性愛の趣味は無いからね!?」
「安心してください。俺もです」
「何一つ安心できないよ……」
職質が難航しているせいか駐在さんの顔には疲労の色が見え始めていた。なんていうか、ご迷惑をおかけしてすいません。でも、俺が言っていることは全部本当なんです。
「君、本当に身分証になる物は持ってないんだね? 免許証とか学生証とか、あとパスポートとビザ関連なんかも」
「はい。俺が持っているのはこれだけです」
俺は水没して故障したスマホを机の上に出した。よくよく考えれば自分が無一文だという事実に何の心配もしていない事が不思議で仕方がなかった。
「ふむ? 見たことのないデザインのエニグマだね。どこのメーカーの物かな?」
「エニグマ? スマホではなくて?」
「スマホ? 何かの略称かな?」
「……いえ、それはアメリカの有名な企業が作った物なんですけど。ご存知ないんですか?」
「アメリカ? 聞いたことのないメーカーだね。どこの国なんだい?」
「……北の大きな大陸にある国です」
「ふむ。僕は知らないなぁ」
俺の曖昧な答えに駐在さんは首を捻る。声の感じからしてどうやら嘘や演技の類いではなく本当にアメリカという国を知らないようだ。しかし、あの世界一有名な国と言っても過言ではないアメリカを知らないなんて……これはどうやら確定と見て間違いなさそうだ。
「駐在さん。差し支えなければ世界地図を見せてもらっても良いですか? もしかしたら何か思い出せるかもしれないので」
「ああ、かまわないよ。ちょっと待ってね」
そう言って駐在さんはおもむろに俺の目の前にある机を指でトンと叩いた。
「hey、
その光景は時代が違えば一種の『魔法』に見えたのかもしれない。
なんの変哲もない普通の机の表面部が駐在さんの声に反応して黒色に変色した。黒色に変色したかと思えば見慣れたPCのデスクトップ風の画面と読めない文字で羅列されたアイコンの数々が机の上に浮き上がってきた。そのアイコンの一つが自動で開かれ、机の上には見覚えしかない世界地図が浮かび上がった。
音声認識。バーチャルアシスタント。スマート家電。俺の頭の中でそれらの単語が浮かび上がった。
いや待て。文明レベルの差どころか技術と普及率だけならこっちの世界の方が上なんじゃないのか?
薄々は予感していたけど。この世界は間違いなく法治国家のもとに社会が形成されている。この技術水準ならインターネットやSNSだってあるに決まっている。むしろ無い方がおかしい。
法治国家なら当然のこと犯罪を裁く法律がある。
そんな時代背景で無一文の住所不定無職の学生もどきの不審者が野に放たれたら、辿る末路はおそらく──。
野垂れ死、よくてホームレス生活。場合によっては獄中生活。そう考えたら途端に嫌な汗がぶわっと背中から吹き出してきた。
「どこの地域を見たい?」
「えっ、えっと。とりあえずこの国の地図から……」
「ゴエティアは……そうだね、地図だとこの辺りだよ」
机の上にあるモニターを指でスワイプ操作する駐在さん。正直言って情緒が不安定すぎて情報が全然頭の中に入ってこなかった。
というか、人に会う前に気付けよ俺。人に会う
これは完全に詰んでる。俺は心の中で祈る様に合掌した。
「ほら、
「すいません。割と大丈夫じゃないです……」
真っ当な生活を諦めかけていた俺の目に映ったのは東の最果てにある『小さな島国』の存在だった。
「駐在さん、この島国の名前は?」
その島国は地理的に見ても日本列島がある場所に存在していた。位置も列島の形状も寸分違わず同じだった。
「あー……、ここは極東の皇国だね。名前は現地名だと
「その国には俺みたいな感じの人間がいたりしますか?」
「君みたいな感じ、ね。うーん、確かに黒髪黒目の種族はいるけど
「…………」
珍しい見た目? ただのアジア人が珍しい?
何だそれ、それじゃあまるで人間がこの世界に存在していないかの様な言い方じゃないか。
「というか、君は本当に何者なんだい? 頭に角もなければ背中に翼も生えてない。別段耳が長いわけでもないし、皮膚が鱗や毛で覆われているわけでもない。それに尻尾だってない。本当に珍しいね、まるで歴史の教科書に出てくる『
「あっ、いや……その」
不味い、明らかに怪しまれてる。話を聞いた感じこの世界って既に人類が絶滅しているパターンっぽいし。
だとしたら……辿る末路に
「駐在さん。もう一つ質問しても良いですか?」
「うん、良いよ」
「仮に、仮にですよ。住所不定無職の不審者が自国に密入国した場合、軍や国の対応ってどんな風にするんですか?」
「ふむ。少なくとも拘束はするだろうね。取り調べで可能な限りの情報を収集した後に国際法に則って然るべき対処をするよ。まぁ、密入国なら間違いなく罰金刑か懲役の処罰は下されるだろうね。そして最後は母国に強制送還」
「…………」
流石は近代的な異世界。不審者に一切の容赦がない。
そりゃそうか。異世界ものの大半が中世ヨーロッパ風の世界観だもんな。戸籍とか身分証がいらない時代じゃないと転生した現地民以外はただの不審者だもんなぁ。
せめて召喚した王様とか姫様とかがいれば状況は違ったんだろうけど。この感じだとそれも無さそうだしなぁ。
完全に詰んだ。もうどうにでもなれ。
「え? もしかして君って密入国者なの?」
「いえ、分からないんです。記憶が曖昧であの海岸に来た前後の記憶すらも無い状態なんです」
「……ふむ」
犬顔の駐在さんは訝しげに俺を観察する。その愛嬌のあるつぶらな瞳は俺から何かを探っている様子だった。
「君の言っていることに嘘は無いとしてもだ。やっぱり僕は何かが引っかかるよ。海外から来たと仮定しても君のバビロニア語はとても流暢だ。不自然なくらいに。滞在歴も無しにそんなネイティブな発音が出来るとは考えにくいけどな」
「バビロニア語? 日本語のつもりですけど?」
「ニホン語?」
「あっ、いえ。何でもありません……」
ですよねー。海外だろうと異世界だろうと日本語が通じる時点で何かしらの特異的な力が働いてますよね。会話で意思疎通できないハードモードよりはマシだけど……完全に異世界召喚確定です本当にありがとうございました。
「うーん。とりあえず国内に戸籍があるかどうかだけ調べたいから名前とか年齢とか何でも良いから君が覚えている情報を教えてくれる?」
「あっはい。名前は咲森誠志郎──」
名前を名乗った瞬間に駐在所内でビービーと耳障りな電子音が鳴り響いた。
「はい、こちら第三駐在所。所長どうかなされましたか?」
どうやらさっきの電子音は電話の呼び出しだったらしく駐在さんは机の画面をタップして顔の見えない誰かと通話を始めた。
「やあ、ガルム伍長。早朝からすまないね」
電話の相手は年齢を感じさせる男性の声だった。いかにも偉いお爺さんって感じの話し方だ。きっと駐在さんの上司なのだろう。
「先ほど危険区間に不審者が現れてね」
「ええ、はい。存じております」
「ふむ、そうか?」
通話中に駐在さんは俺の方に視線を向けた。ですよね。俺ですよね、その不審者って。
「君も薄々は勘づいているとは思うが、不審者は例の『赤服を来た少女達』だ。悪いが現場に向かって追い払ってきてくれないか?」
「あっ、はい。了解しました。至急現場に向かいます」
通話を終えると犬顔の駐在さんは「やれやれ」と嘆息する。いかにも面倒くさいと言いたげな心情がその犬顔に現れていた。
「またあの子達か。今どきカラーギャングだなんて時代錯誤も甚だしいよ。まったく」
どうやら俺以外にも不審者がいるらしく駐在さんは重い腰を上げて椅子から立ち上がり駐在所の出口に向かう。
「僕はちょっと席を外すから君はコーヒーでも飲んで待っててよ。hey、Genius。彼にコーヒーを運んで」
もふもふの尻尾が朝日の彼方に消えていくのを見送ると駐在所の奥から顔面が液晶モニターで構築された小さなロボットが滑らかな動作でコーヒーを運んで来た。
「……こいつは都内の某ファミレスとかにいる配膳ロボット! デザインは犬っぽいけど既視感しかないな!」
流石に全自動で食事を配膳する機能までは有していないらしく俺は机の前で停止したロボットの中から陶器製のマグカップを取り出した。
「むぐ、なんだこのコーヒー……めちゃくちゃ甘いぞ」
匂いも色も間違いなく俺の知っているコーヒーそのものである。しかし、砂糖の量を間違えているのかこの味がこの地域では普通なのか分からないが、とにかく甘ったるい。この味わいは千葉県発祥の某缶コーヒーを凌ぐ甘さだ。
「しかし、変な記憶喪失だよな。スマート家電とかラノベの内容とかは覚えているのに自分の身の回りのことだけは全然思い出せないなんて」
カフェインと糖分を摂取すれば頭の回転率が上がるかとも思ったが……どうやら俺の残念頭脳はそんな都合の良い頭ではないらしい。
「……はっ!? もしかして今って逃げる最大のチャンスなんじゃ?」
そんな重要なことにも気付かないで呑気にモーニングコーヒーを飲んでいた俺は間違いなく優柔不断な軟弱者なのだろう。俺が逃げたら駐在さんに迷惑がかかるとか、逃げても行く当てがないのにどうするんだとか。そんなことばかり考えて何も行動を起こさない。
いつの時代もどの世界でも『物語の主人公』に求められている一番の能力は己の意思を示せる決断力。言わばリーダーシップだ。俺にはその能力が圧倒的に足りていない。
「……なるほど、
もしも。
この時に突然現れた仮面の少女に問われたバカみたいな質問に即答出来ていれば、俺の運命は少しはマシな方向に向かっていったのだろうか。
「ねえ、アンタ。この世界に『楽園』はあると思う?」
★★★
「ああ、自己紹介が先だったかな。あたしの名前はハイネ=ストライブ。見ての通りガラの悪そうな魔族よ。よろしくね、角なしの
ハイネと名乗る少女は顔に着けていた
「それで、アンタの名前は? 一応は名乗ったんだからそっちも名乗り返すのが礼儀でしょ?」
「俺の名前は咲森誠志郎……」
「ふーん。変な名前ね……って、もしかして、アンタって
「ああ、言ってることはちゃんと分かるよ」
「そ、なら良いけど」
「…………」
記憶の一部を喪失したせいもあるのだろうが……目の前にいる彼女は俺の人生において最高峰の美少女だと言ってもいいだろう。そう思えるほど彼女の容姿は可憐でどこか神秘的な魅力を兼ねそろえていた。
黒いリボンで括ったツインテールが印象的な桜色の長い髪。切れ長の真紅の瞳。生い茂った長いまつ毛。薄紅色の唇。リンゴよりも赤い色をしたジャケットでは隠しきれないメリハリのあるボディライン。短いスカートが印象的な服装。色白の肌も整った顔立ちも何もかもが魅力的に見えた。
そんな魅力的な容姿に比べれば頭に生えている羊みたいな角とか臀部から生えている細長い尻尾なんて別段と気にはならない。それに耳の先が少し尖っている。全体の容姿を見るとどことなく漫画やアニメに出てくる悪魔キャラに似ている気がする。
自分を魔族と言うからには彼女は
「それで? 答えは出たの? アンタは楽園の存在を信じているの?」
返答の催促をされて俺はようやく自分が彼女に見惚れていることに気付いた。
「え? あっ、いや。よく分からない」
「はい、0点。有るか無いかの二択で分からないって言う時点で決断力が足りてない。やっぱり考え直そうかな、アンタを連れて帰るの」
俺の答えにガッカリしたと言わんばかりにピンク髪の悪魔少女、ハイネは深い溜息を吐いた。
「連れて帰る? 俺を?」
「そう、あたしらの仕事の都合でね。結構良い値段で依頼されたから受けようと思って来たんだけど。こんな間抜けを匿うくらいなら早めに見切り付けたほうがいいかなって。こっちも役立たずを養えるほどお金に余裕ないから」
「…………」
見た感じ俺とハイネの歳はそんなに離れていないと思う。もしかしたら歳下の可能性だってある。むしろその可能性の方が高い。それなのにハイネはどう考えても俺のことをナメている。そんな相手に見下されるのは正直言って面白くない。
「そうだな、俺もカラーギャングの真似事をする連中とは関わりたくないしな。悪いが、その仕事は諦めてくれ」
そんな軽口を叩いたせいだろう。煽り文句とも取れる俺の発言を受けたハイネの表情がみるみると険しくなっていった。
「は? 今、なんて言った?」
真紅の瞳に明確な怒りを宿したハイネは俺との距離を詰めて胸ぐらを強引に掴んだ。
「良く聞こえなかったからもう一度言ってくんない? あたしらがなんだって?」
「ガキのワガママに付き合ってられないって言ったんだよ。お前ら周りの大人に迷惑かけてるって自覚ないだろ」
駐在さんのあの反応を見る限りコイツは不良の類だろう。そういう人種は
まさか、たかが口論に凶器なんて出すわけないだろうし。
「はっ、何も知らないくせに随分と偉そうに言うわね。赤の他人にこんなにナメられたの久々過ぎてあたし今凄くキレそうなんだけど?」
「なんだ、暴力にでも訴えるか? やっぱりガキだなお前」
「…………っ!!」
腕力に任せて俺を突き飛ばしたかったんだろう。しかし、華奢な身体つきと身長差もあって俺の身体は微動だにしなかった。プルプルと震える細い腕は産まれたての子鹿よりも弱々しかった。
「チビ女のくせにイキるなよ。少しは体格差考えたらどうだ?」
「はぁ? あたしチビじゃないし! 身長150センチ以上あるし!」
「見え透いた嘘をつくな。厚底のブーツで身長誤魔化してるだろ。まぁ、本当に150センチあっても俺から見ればチビだけどな」
「……っ、この!」
下から俺の顔を見上げるハイネ。その真紅の瞳から怪しい輝きが放たれた気がした。
「【
何言ってるんだコイツ?
そう思った時には全てが手遅れになっていた。俺の身体は俺の意思に反してゆっくりと床に膝をついた。
なっ、身体が勝手に動いただと!? 催眠術の類か!?
「ふー、ふー、ふぅ……ふん。いい気味ね。人のことナメるから天罰が下ったのよ。マジざまぁ」
身体の自由が利かないという異常事態に混乱していると、不敵な笑みを浮かべた
「今からあたしの言う言葉を復唱して。ハイネ様、生意気な態度を取ってすみませんでした。ほら、言って」
「は、ハイネ様。生意気な態度を取ってすみませんでした」
「どうか許して下さい」
「どうか許して下さい」
「この哀れなクソ雑魚ナメクジに慈悲を恵んでください」
「この哀れなクソ雑魚ナメクジに慈悲を恵んでください」
「お願いします」
「お願いします」
馬鹿みたいな言葉を復唱し終えるとハイネは満足そうな顔でうんうんと頷いた。
「もー仕方ないなー。そこまで言うなら考えてやらないこともないけど。うーん。でもでも、あたしこのクソ雑魚ナメクジのことは大嫌いなんだけどなー」
一人で愉快そうにケラケラと笑うリアル悪魔はあらぬ事を口走る。その一言は初対面の相手の本性を知るには充分すぎるほど的確な判断材料だった。
「そうだ、忠誠の証にあたしの靴を舐めてよ。そうしたら考え直してあげても良いけど?」
調子に乗るのもいい加減にしろよ。
そう思ったからだろうか、俺の身体を縛り付けていた謎の強制力が徐々に弱まっていくのを感じた。
「ふざけるのも大概にしろよチビ女。誰が──」
そう吠えた瞬間にまた真紅の瞳が俺の目を怪しい輝きで射抜いた。そのせいか再び俺の身体から自由が奪われる。
「へぇ、思っていたより【魔眼】の効果が切れるの早いじゃない。てゆーか、自我が残っているのも珍しいわね。まぁ、もう一度使えばいいだけの話なんだけど!」
ハイネはそう言って跪いている俺の顔をブーツで思いっ切り踏みつけた。
「ほら、優しいハイネ様がクソ雑魚ナメクジにご褒美あげてるんだから少しは喜びなさいよ。そんな反抗的な態度のままだとマジでこのまま置き去りにしてやるんだから」
チラチラと光沢感のあるピンク色の
「まぁ、何も考えずに何でもかんでも他人任せにしたり脳死で全部を肯定するバカも嫌いなんだけどね。それに比べれば反抗的な方がまだマシかな。いや、どっちも嫌いなんだけどさ」
「むぐ〜。むぐぐ!」
「ほら、素直に謝れば顔を踏むのやめてあげるけど? ほらほらほら」
「もがー!」
「やだキッモ。そんなにあたしに踏まれるのが嬉しいの? アンタって奴隷の素質あるんじゃない? マジキモーい」
「ブフオッ! いい加減にしろ!」
「ちょっ!? 効果切れるの早過ぎって……きゃっ!」
俺がこのタイミングで抵抗したのが予想外だったらしく性格も見た目もリアル悪魔のハイネはバランスを崩して駐在所の床に尻餅をついた。当然のことスカートが短いからピンク色の下着が良く見えた。なんなら太ももの付け根まで良く見える。
「あたたた……はっ!?」
自分の足が開けっ広げになっているのに気付いたハイネは瞬く間に短いスカートの裾を手で抑えた。いや、その隠し方だとまだ見えるから。足を閉じれ、足を。
「変態! スケベ! あたしのパンツガン見するとかマジキモい! 死ね! このムッツリ!」
顔を赤面させありとあらゆる罵詈雑言を言い放つハイネ。キレ散らかすのは勝手だが、半分以上は自業自得だと思う。というか、俺は見たくもないパンツを見せられた被害者なんだが?
「下着見られたくらいで騒ぐなチビ。さてはお前、実年齢もガキだな?」
「はぁ? ガキじゃないし! あたしもう十六歳だし!」
「はぁ? 十六歳? その童顔と性格で? 嘘だろ? そんなんで俺の一個下とか冗談も大概にしろよ」
「ふふっ、あははは……」
不気味な笑い声と不穏な気配を発するハイネは「あたしさ、歳上の男に子供扱いされることが世界で一番許せないんだよね」と呟き自分の懐に手を差し込んだ。
「決めたわ。今この場でアンタを撃ち殺す!」
ジャキッ。真紅のジャケットの下から取り出されたのはやたらと重厚感のある黒塗りのハンドガンだった。ハンドガン!?
「いや、待て。そんな玩具なんかに──」
パン! 乾いた発砲音の後に
「お前っ、マジもんのハンドガンは卑怯だろ!」
「次は本当に当てるけど? あたしに何か言うことは?」
「ヒェっ。そ、それは遺言的なヤツですか?」
「アンタの態度次第ではそうなるかもね」
銃口を向けられた俺は素早い所作で土下座の姿勢を取った。
「調子に乗って本当にすみませんでした!」
「ダメ、誠意が足りない。もう一度謝って」
「誠に申し訳ございませんでした。二度と逆らわないので命だけはお助け下さい。お願いします」
「もう一度」
「このクソ雑魚ナメクジに慈悲を恵んでくださいハイネ様!」
「……はぁ、分かればいいのよ。分かれば」
十七歳の男子高校生が歳下の女子に土下座で命乞いをした瞬間だった。信じられない状況だが紛れもない現実だった。
というか、妙な既視感がある。まるで過去にも似たような口論を誰かとしたかのような……。
自分よりも歳下で、背も低くて、生意気な態度を取る妹のような──妹?
なんだそれ? コイツと妹が似ていると思っているのだろうか? 何も思い出せないのに似ている? 何を根拠に?
俺の残念頭脳はどうやら本当に残念頭脳らしい。赤の他人に妹の面影を重ねるなんて馬鹿馬鹿しいにも程がある。
「はい、とりあえずターゲット確保っと」
ガチャリ、と。
考え事に頭を悩ませている一瞬の隙をついてハイネは俺の両手に手錠をかけた。油断大敵とはまさにこの事だと痛感した瞬間だった。
「おい、待て! 何だこの手錠は!」
「こちら
「人の話を聞け!」
抗議の声をあげている俺の事を無視してハイネは耳に装着しているインカムで誰かと通信を始める。
「……カノープス02どうしたの? ……うん。数は? あー、それくらいなら駐在軍に任せておけばいい──って、はぁ? うちら追っかけ回してて気付いてない!? 馬鹿じゃないの! 何のための駐在軍よ!」
どうやら何かしらのトラブルが発生したらしくハイネは悩ましげな溜息をついた。
「分かった。その数なら少数で対処出来るから近くにいる子と協力して掃討して。あたしも殿で残るつもりだったし。とりあえず今からそっちに合流する。ついでにターゲットもそっちに連れて行くから」
誰かとの通信を終えたハイネはあごで「あたしに着いて来い」と俺に指示を出した。
「丁度いい機会だしアンタにも『仕事』を見学させてあげる。うちらがただの『カラーギャング』じゃないってこと特等席で思い知らせてやるから」
「いや、俺はここから動かないぞ」
「うざっ、いいから来なさいよ!」
手錠を掴まれて無理やり外に連行されると駐在所の奥から騒々しい
「今頃になって気付くとかおっそ。こんなのに高い税金払ってると思うと頭が痛くなるわ。まったく」
「おい、今からどこに向かうんだ?」
「着いてくれば分かるから。嫌でも、ね」
「…………」
ハイネの愚痴に付き合いつつ移動を開始すると、何故か俺は言いようのない焦燥感に駆られた。
まるで今から戦場に向かうかのような、そんな不安と緊張が入り混じった複雑な感情が俺の中でグルグルと渦巻いていた。
それは予感であり既視感であり直感でもあった。俺はこの先に何が居るのかを知っているかもしれない、と。
ハイネに連れられて向かった先にはあの城壁じみた壁があった。
「ほら、ここからなら良く見えるでしょ?」
あの犬顔の駐在さんが使っていた小窓から海岸を覗き見るとそこには目を疑う様な光景が広がっていた。
「……なんだ? あれは……」
俺がその日見た『戦場』は海岸で恐竜の様な怪物と戦う赤いジャケットを着た少女達の命を賭けた死闘だった。
③忘却のメメント・モリ 歩く様な速さで楽園を目指す異世界少女達の軌跡 久保棚置 @kubotu
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