悪魔の右手神の左手

明日葉叶

第1話 コトナルセカイ

 赤子は笑っては生まれてこない。

 この世に生を受けたこと、これから始まる苦悩に感情が抑えきれず泣いてしまう。

 人は本能的に知っているのだ。人生の本質とは苦しみだという事を。

 いつの間にか始まってしまった人生を、人は止めることはできない。自らの手で幕を書ない限り……。

 

 築50年の木造アパートの一角。そこから覗く小さな窓には何度も通過する車のヘッドライトが陰影を作っては消えていった。

 真田和馬は今、自らの首に紐をくくりつけようとしている。

 自殺。そう文字にしてしまえば、その言葉は重く、和馬はきっと現実に立ち返るだろう。しかし、和馬は自然とその選択をしてしまっていた。

 これまで人に蔑まれてきた人生を覆そうと始めた執筆は、何度も現実に叩きのめされ、そのたびに起き上がり、ついに折れた。

人並みの幸せを願う心も霧散していた。

無力。それが今の和真のすべて。

右手だけで縄を掴み、首を通したのは無力な和真の中にあった力の残りカスがその程度しかなかったからだろう。

小さな脚立は軽く足で蹴飛ばしただけで転がり、起きる気配はない。和真より先に逝ったのかも知れない。

今、和真の体を支えているのは彼の体ではない。

天井から伸びる無骨なロープ、それが次第に万有引力を用いて彼を安楽の地へと誘う。

和真は思った。

人は生まれた時に涙を流すなら、死ぬときは……?

彼はこれまでの人生を振り返り、そして……。


 和馬は目の前に広がる見知らぬ天井を死後の世界の何かと勘違いしていたようだった。掴めるはずもない天井に何度も手を伸ばし、つかむ。その動作を繰り返すうちに、和馬は現実を知る。

 自分は死ねなかったと。湧き上がる悲しみと、虚無感に和馬は打ちのめされていた。ベッドの上に寝転ぶ自分は、死ぬことも許されなかったと。

 涙子は笑っては生まれてこない。

 この世に生を受けたこと、これから始まる苦悩に感情が抑えきれず泣いてしまう。

 人は本能的に知っているのだ。人生の本質とは苦しみだという事を。

 いつの間にか始まってしまった人生を、人は止めることはできない。自らの手で幕を書ない限り……。

 

 築50年の木造アパートの一角。そこから覗く小さな窓には何度も通過する車のヘッドライトが陰影を作っては消えていった。

 真田和馬は今、自らの首に紐をくくりつけようとしている。

 自殺。そう文字にしてしまえば、その言葉は重く、和馬はきっと現実に立ち返るだろう。しかし、和馬は自然とその選択をしてしまっていた。

 これまで人に蔑まれてきた人生を覆そうと始めた執筆は、何度も現実に叩きのめされ、そのたびに起き上がり、ついに折れた。

人並みの幸せを願う心も霧散していた。

無力。それが今の和真のすべて。

右手だけで縄を掴み、首を通したのは無力な和真の中にあった力の残りカスがその程度しかなかったからだろう。

小さな脚立は軽く足で蹴飛ばしただけで転がり、起きる気配はない。和真より先に逝ったのかも知れない。

今、和真の体を支えているのは彼の体ではない。

天井から伸びる無骨なロープ、それが次第に万有引力を用いて彼を安楽の地へと誘う。

和真は思った。

人は生まれた時に涙を流すなら、死ぬときは……?

彼はこれまでの人生を振り返り、そして……。


 和馬は目の前に広がる見知らぬ天井を死後の世界の何かと勘違いしていたようだった。掴めるはずもない天井に何度も手を伸ばし、つかむ。その動作を繰り返すうちに、和馬は現実を知る。

 自分は死ねなかったと。湧き上がる悲しみと、虚無感に和馬は打ちのめされていた。ベッドの上に寝転ぶ自分は、死ぬことも許されなかったと。

 慟哭の瞬間、息を限りなく肺に送る。その時に悟った。この部屋には自分員外に誰かがいると。気づけば窓は丸く、自分のアパートにはない木目調の家具がある。

 そして何より、暖かなスープのようなにおいが隣の部屋から立ち込めてくるようだった。

「気が付いた? もう少しでお昼ができるからあとちょっとだけ待っててね。……村のみんな、あんな扱いをしちゃってごめんね。でも、いつかきっとあなたの存在価値が認められるはずだから一緒にがんばろ?」

 女の声だった。自分の部屋に見知らぬ女がいる。和馬は瞬間的に防衛本能に従った。

「誰だ!? 人の家に勝手に入り込みやがって! 今頭ぐ出て行かないと警察呼ぶぞ!?」

 和馬は自らを蔑ろにしてきた異性に対して憎悪にも似た黒い感情をいだいていた。同時に、それと同じくらいの家庭に対する暖かな感情も持ち合わせていた。

 叫んだあと、強烈な胸の痛みに悶え、ベッドのシーツに屈する。

「それだけ元気ならもう外に出歩いても平気ね。不死身さん」

 さんざんむせた後、和馬は女の接近を許してしまったことに気づき、慄く。

「そんなに怖がらなくても、別にあなたを食べたりはしないわ。どう? 数日ぶりに地中から出されて新鮮な空気を吸うのは?」

 呆然としたのは女が和馬の好みの姿をしていたからではない。

「……あぁ? 花? あなたは知らないかもしれないけどもう少しで復活祭なの。あなたを掘り返すついでにお供え物としてとってきたのよ。ミレストの森……って言ってもわからないか、とにかく大変だったんだから」

 女の後方、部屋の隅の棚に真っ赤なザクロのような花が一輪。和馬は部屋に花を飾るような趣味はない。

 ひとしきり話し終えると女は和馬のベッドに座って、自家製であろうスープを和馬に差し出す。

「はい、うちでできたキノコとほうれん草のスープ。少し胡椒が利きすぎたかもしれないけど、味見したから大丈夫」目の前の女はそう言うと肩まで伸びた黒髪をふわりと揺らせ、スプーンですくって和馬へ。

 腹は確かに空いていた。しかし、和馬には未消化のワードがいくつかあった。

 見知らぬ女。村。生き埋め。そして、不死身。

「……うまい」

 一口すすったスープは、塩味が利いていてくせになった。暖かい食事をとったおかげか、和馬は少しだけ冷静になれた。

「俺は和馬、和む馬とかく。君は?」

「あ、ごめんそういえば自己紹介がまだだったね。私がリナ。和む馬ってどう書くのかよくわからないけど、きっといい名前なんだろうね」

 漢字も通じないのか……。和馬は思う。もし仮に、これが夢だとして。自分の身が不死身だと言われるほどの強固な肉体を手に入れ、自分の好みに合わせた異性が目の前にいる。もしかしたらこれは少しだけ幸せなことなのかもしれない。

 死後の世界も案外悪いものではない……、などと頬が一瞬だけ緩んだ瞬間だった。

 ふいに目の前の丸い窓から視線を感じ視線を移す。和馬と目があったその子供は身を固くして動かない。

「そろそろ来る頃かと思った。おいで、一緒にお昼食べよう」


 少女の名前はニーナ。リナの家に頻繁に現れては、こうして飲食を繰り返す。一人暮らしのリナとしては良い話し相手になっているようだった。

 最初、ニーナは和馬を警戒して壁に身を隠すように観察をしていた。その様子に和馬は床頭台から紙を一枚手に取り、紙飛行機を作ってやることにした。

 幼少期を思い出し、手を動かす。不格好になってしまったが、飛行には問題なさそうだった。

 初めは得体のしれないその紙にすら警戒をしていたニーナだが、ふわふわと飛ぶその様にすっかり魅了されたらしく、今では外でリナと遊んでいる。

 その日のうちに和馬は歩けるまでに回復していた。

「このカミヒコーキってやつ、あなたの国の物なの?」

 青い空の下、子供に混じって大人のニーナも和馬の作った粗末な紙飛行機に夢中になっていた。

 歩けるようになったとはいえ、二人に混じってそれを追いかけまわすような体力まで回復してなどいない和馬は、近くの木陰で二人を眺めていた。

「国っていうか……別に紙飛行機ぐらい普通だろ? なんでそんなことも知らないんだ?」

「だって、私の生まれたこの村にはないから」

「ずいぶん閉鎖的なんだな」

 もう何百回とフライトを繰り返した紙飛行機は疲れ切っていたのかもしれない。悪戯に流れてきた風に機体が流されて、そのまま小川に墜落してしまう。

 こうなると当然のように子供は泣く。どうしてこうなってしまったのかと大泣きをする。

「ニーナ。形あるものはいずれなくなる。今度はもっと大きいやつを作ってやるから、もう泣くな」子供もいないはずの和馬が、偉そうに子供に説教をするさまは見ているこちら側からすれば滑稽以外何物でもなかった。

 和馬は思っていた。いづれ、もし仮に本当に自分にそんなチャンスが巡ってくるとして、子供の成長を楽しめる様な大人になりたいと。そういう家庭を持ってみたいと。女性経験もないくせに。

 残酷にもニーナの望みを飲み込んでしまった小川は、途絶えることのない水脈で紙飛行機ではしゃいでいた時間もろとも飲み込んでいく。

「リナちゃん……!カミヒコーキ、溶けてなくなっちゃう……!!」

 ニーナとリナのやり取りを勝手に自分の理想の家庭環境に乗せて、和馬は阿保ずらで風に思いを馳せていた……。

「大地の聖霊よ、我とともに願いを叶え賜え……」

 はっきりとは聞こえないが、そんな言葉が聞こえた気がして現実に戻る和馬は目を丸くした。

 

 ニーナがかき集めた湿ってぼろぼろになった紙くずが、粘土の様に塊になったかと思えば形を成して元の紙飛行機になっていく。


「はい。もう近くで飛ばしちゃだめだからね?」

「うん! ありがと!」

「は!?」和馬だけは目の前で起きた現象に名前を付けることができない。リナが何かしらの言葉を口にして……、そのあとは、確か……。和馬は自分の中の脳細胞をフル活用して過去をリプレイしいた。

「「魔法……知らないの?」」それが女二人で導き出した和馬への答えだった。






 

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