ゲテモノ=

ム月 北斗

美を知るカミ 1

『あなたの顔を買い取ります』

 男の目の前の壁面に、呆れるほどうさんくさいポスターが貼ってあった。

 まるで宗教団体の勧誘ポスターかのように、デカデカと書かれた文字の後ろの背景には、不気味な顔の無い女神像が描かれている。

 地下鉄の駅と住宅街とを結ぶこの地下通路は、朝と夕方には学生やサラリーマンでごった返すのだが、夜になると人気はウソのように静まり返る。

 蛍光灯は部分的に点かなくなっており、目を凝らさなくてはほんの少し先すらも見ることがかなわないほどだ。

 それなのに、男はポスターを見つめている。

 くたびれた背広、ところどころ擦った跡のあるカバン、疲れているのか猫背気味のその男は食い入るかのようにポスターを見つめているのだ。

 まるで、光の周りに集まる蛾のように、男にはもしかしたらポスターが"光"でも放って見えていたのだろうか。

 ただ、じっと見つめている。

 流れ込んできた風の音と、明滅を繰り返す蛍光灯から聞こえる微かな虫の羽音のような不快音だけが静かに響いている。

 次第に男の視線はポスターの右下、そのポスターを貼ったであろう者の電話番号に移っていった。

 男はカバンの口を開け手を突っ込むと、中に入った資料やらを掻き分けて、携帯電話を取り出した。

 ふたつ折りの携帯電話、今時古臭いそれは、俗に言う『ガラケー』である。

 操作が不慣れなのか、はたまた疲れからか、ふるえる指先で男はポスターの電話番号を打ち込んでいく。

 入力を終え、通話ボタンを押す。そして男は静かに携帯電話を耳に当てた。

 わずかな音しかない静かな地下通路に、男の携帯電話から鳴るコール音が追加された。

 <プルルルル・・・プルルルル・・・>

 鳴り響くコール音。

 <プルルルル・・・プルルルル・・・>

 大抵のもの好きなら興味本位でその番号に電話をし、「やっぱりイタズラか」と結論付けて帰るものだ。

 だが、男は違った。

 いつまでたっても鳴り続けるコール音に、男は微動だにせず待ち続けたのだ。

 <プルルルル・・・プルルルル・・・>

 数十回ほどの長いコール音は、不意に<ガチャッ>という音に変わり、通話状態になったことを男に告げた。

 普通であれば・・・いや、そもそも『あなたの顔を買い取ります』なんていうポスターを貼ってあるのだからではないのだが。

「お電話ありがとうございます」程度の返答ぐらいはあるものだ。

 が、その電話の向こうの相手からは、そのようなもの一切ない。完全な無言である。

 男は困惑した。当然だ、電話をしたならば、通話先が先に声を出すものだからだ。

 数秒の沈黙の後、意を決した男が先に声を掛けた。

「あ・・・あのぉ・・・ポスターを見て電話したんですけど・・・」

 申し訳なさそうに。別に男には何一つ落ち度はないのだが。

 しかし、そんな男の声にすらも電話の相手からは返答が無い。

 男は不安になりつつも続けた。当然、申し訳なさそうに。

「顔を・・・買い取ってくれ・・・る?ちょっと、気になったと言いますか・・・なんというか・・・」

 やはり相手からの返答は『無言』であった。

 他人からしてみればあきらかに怪しいものである。普通は関わったりはしない。そういうものだ。

 だが、男には事情があった。

「今・・・少し、お金に困ってるっていうかなんていうか・・・い・・・いくらで買い取ってくれたりするのかな~・・・って、いうか・・・そのぉ・・・」

 どことなくおどけた口調を交えて男が喋っていると、突然、ポスターが剥がれ落ちた。

 貼り付けが甘かったのか、落ちたポスターは空を滑るように男の股下をくぐり、背後へと飛んでゆく。

 男はそれを目で追うと、後ろに誰かが立っているのに気付いた。

 その人物の方へと体を向け、爪先からゆっくりと見上げていく。

 胸元辺りまで視線を上げた時だった。男は突然、視界を失った。

 決して、気を失ったとかではない。目の前が真っ暗になったのだ。

 何が起きたのか?蛍光灯がついにくたばったか?それとも停電か?

 真っ暗な中で男が慌てていると、誰かの声が聞こえてきた。

 なぜだかとても喜んでいるようだった。まるで長年落ち続けた大学の入試に合格したかのように、はたまた、片思いの相手に告白をして付き合えることになったかのように。やかましく飛び跳ねているのか、足音がけたたましく響く。

「やったあああああ!!やったやったやったやった!やったぞおおおおお!!」

 なんだろう?なにがそんなに嬉しいんだろう?と、男が間抜けに疑問を抱いていると、誰かに両肩を掴まれた。

 興奮しているのか、握るその力は、肩をそのまま潰すんじゃないかというほどだ。

 おまけに、馬跳びでもしたいのか、跪かせんとするほどに体重までかけてくる。

 そして、万感の思いを込めて、その人物は切り出した。

「あんた・・・ホンッ――――トオオォォに、ありがとな!やっと・・・やっと・・・"顔"が返ってきたぞおぉぉ!!」

 雄叫びのようなそれは、地下通路の壁面を伝い、ビリビリとした感覚となり男に突き刺さる。

「感謝!マジ感謝だわ!あんたになんかあったらよぉ、助けてやっからな!あ、でも、その以外の話、な!じゃな!」

 なにやら別れの言葉のようなものを言い残し、その人物が走り去って行く。

 ウキウキとした足取りで、スキップでもしてるのか、こぎみよい音が男には聞こえた。

 しかし、依然として男の視界は暗闇であった。

 また、男以外に誰もいなくなった静かな地下通路。

 すると・・・男の耳にまた、誰かの声が聞こえてきた。

「ミギ・・・ミギ・・・」

 その声を聞いた瞬間、男の意思とは関係なく、身体は勝手に右を向いていた。

「マッスグ・・・ツキアタリマデ・・・」

 勝手に進みだす男の身体、男は止めようとしたが言うことを聞かない。

 いや、

「カイダン・・・ノボッテ・・・ヒダリヘ・・・」

 突如として制御の利かなくなった自身の身体。

 次第に男は、その意思すらも喪失していった。

 まるで・・・大切なものを失ったかのように――――

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