最終話 聖女が騎士に望むこと
旅立ちの日だというのに、リリアーナは朝から体が重かった。
その原因は、なんとなくわかっている。
「──ソワレ侯爵家の没落? いいえ、違うわ」
かねてからささやかれていた二女リリアーナへの虐待と、季節外れのたき火によって引き起こされた屋敷の全焼を
跡取りであるサティーナは国王の怒りが解けるまで──国王曰く、彼女の腐った性根が直るまでは許さないそうだ──遠方の神殿預かりとなり、リリアーナは継承をかたくなに固辞したため、ソワレ侯爵家は実質没落となった。
リリアーナとしては、王都を離れたあの日にすべて捨てたつもりだったので、両親やサティーナがどうなろうと今更どうでも良かった。
そんなことよりも、彼女の頭を悩ませているのはハリーである。
のそのそと体を起こしたリリアーナは、だるそうに盛大なため息を吐きながらゆっくりと着替え始めた。
リリアーナは、ここ最近よく眠れていない。
それは、両親のせいでも、サティーナのせいでもなく。
ベッドに入って目を閉じると、あの日見た気だるい色気をまとうハリーを思い出してしまうせいだ。
恥ずかしさに枕へ顔を埋めて声を押し殺していると、今度は低くて甘い声が耳元でささやいているような幻聴が聞こえてくる。
そうなるとますます目が冴えてしまって、リリアーナは恥ずかしさに身悶えするのだった。
夜遅く、自室へ向かうハリーの足音が聞こえるたび、扉がノックされたらどうしようと無用の心配をする自分が、どうしようもなく恥ずかしくてたまらない。
隣室の扉がパタンと音を立てて閉じるまでのわずかな時間、思い出すのはリリアーナの髪へキスを落とした時のハリーの唇だった。
「ひぇぇ……」
手で顔を覆っても、どうにもならないことはわかっている。
それでも、やらないではいられない。
少なくともジタバタしている間だけは、幻聴を聞かずに済むからだ。
「認めるわ。どうやらわたしは、ハリー様について考える必要があるみたい」
王都へ戻って、約半月。
ずっとエドランド侯爵邸でお世話になっていたが、それも今日で終わりである。
リリアーナは、シュタッヘルへ帰る。
ミイルズ王子の不治の病を根治させた功績により、リリアーナはシュタッヘル周辺からフランツェ山脈の一角までの広大な土地を領地として賜り、それに伴ってロジェッタ辺境伯に任命されたからだ。
隣国エッシェとの国交は今の所良好だが、いざという時は竜の力を借りて牽制してもらいたい──と国王は言っていたが、「苦労させてしまった分、少しでも穏やかな日々を送らせてあげたい」というルアネの嘆願が大きく影響したのだろうとリリアーナは思っている。
ろくな思い出がない王都にいることは息苦しく、そんなリリアーナの気持ちを汲み取る形で、国王はあらゆる便宜を計ってくれた。
神殿からの正式な謝罪や辺境伯の任命式など、きちんとやろうとしたら数か月はかかるものを半月で済ませられたのはそのおかげだ。
慌ただしい日々と寝不足が続く中、とうとう迎えた今日という日。
もう放置はできないと、リリアーナはようやく覚悟を決めることにした。
リリアーナが神殿から正式に
彼女を献身的に支え続けた功績と、数多くの聖女たちが熱望したこともあり、騎士として復帰するだけでなく近衛騎士団第二小隊の隊長にと望まれているらしい。
きっとこれは、ハリーにとって絶好のチャンスになるはずだ。
田舎町でリリアーナの世話を焼いているよりもっとずっといい環境で働けるし、仮面の必要がなくなった今、彼を婿養子にと望む声は多い。
「辺境伯はそれなりに高い地位ではあるけれど……ハリー様を溺愛するエドランド侯爵夫妻は、王都にいてほしいって思っているはずよ」
そんなこと、聞かなくたってわかる。
となれば、ハリーとはここでお別れするのが正解だろう。
笑顔で別れを告げて、サラッと青薔薇の祝福を贈ったりして……そういうのが、大人の女性というものだとリリアーナは自分へ言い聞かせる。
「ハリー様がついてきてくれたら、どんなに心強いか……」
貴族令嬢として生まれながら、読書しかしてなかったリリアーナ。
知識は持っていても、領地運営なんてやったこともない。
シュタッヘルの人々も竜たちも手助けはしてくれるだろうが、四苦八苦することは目に見えていた。
「ハリー様のおいしいおやつとお茶があったら、どんなことでも頑張れるのに……って、だめだめ! ハリー様だって、幸せになる権利があるのよ」
リリアーナがソワレ侯爵家から解放されたように。
ハリーにも、幸せになってもらいたい。
ハリーの幸せは王都にあると信じて疑わないリリアーナは、一人で荷造りを始めた。
もともと数日しかいるつもりはなかったので、荷物は少ない。
あっという間に片付いてしまった荷物を掴み、リリアーナは部屋を出た。
「どこへ行くつもりだ? リリアーナ」
廊下へ背を向ける形で扉を静かに閉じていたリリアーナの背後に立っていたのは、起床してすぐに至急戦地へ向かうよう命令されたような男──取るものもとりあえず部屋から飛び出したようなハリーだった。
リリアーナの考えることなどお見通しといった風で、別れも告げずそっと姿を消そうとしていた意気地なしの彼女を責めるように、怒りの笑顔で立っている。
反射的に逃げようとドアノブに手を伸ばしたリリアーナだったが、伸びてきた手に阻まれた。
「もう一度聞く。どこへ行くつもりだ?」
「どこって……予定通り、シュタッヘルへ帰るんです」
「俺を置いて?」
「そう、ですけど……だってハリー様は騎士に戻るのでしょう?」
答えた瞬間、深いため息が聞こえた。
前は扉、後ろはハリーで身動きの取れないリリアーナの肩に、ハリーの頭がノシッと置かれる。
髪を整える時間もなかったのか、ピョコピョコと跳ねた髪が首を掠めてこそばゆい。
「ハリー様……?」
「落ちてくるのを気長に待っていたら、まさか置いていかれるとは思ってもみなかった」
「置いていくなんて。それぞれが求められるところへ行くだけでしょう」
宥めるようにハリーの頭を撫でると、グリグリと額を押し当てられる。
まるで子どものようなハリーに、リリアーナは苦笑いを浮かべた。
「俺ばかり」
「え?」
「俺ばかり、寂しいと思っているのだな。もう、いい」
苦々しいつぶやきとともに、ハリーの頭が遠ざかっていく。
扉についていた手が離れるのを見た瞬間、リリアーナは衝動的に腕に抱きついた。
「あ、えっと、これは、その……!」
しどろもどろで、何か話そうと思っても言葉にならない。
ハリーは腕にしがみつかれたまま、振り払いはしないが静かにリリアーナを見つめていた。
深い夜色の目は、何を考えているのかわからない。
もしもこのまま別れたら、もう二度と前のハリーとは会えないだろう。
次に会った時、対面するのは目の前にいる感情を抑えた無表情のハリーということになる。
(それは、嫌)
どんなに恥ずかしくても、前の……リリアーナにあたたかな視線を向けてくれるハリーのままでいてほしい。
自分の我儘を押し通すのだ。そのためならちょっとくらいは我慢してもいいと、彼女は腹を括った。
「本当は、一人で帰りたくないです」
先を促すように、ハリーの手がリリアーナの頭をクシャリと撫でる。
じんわりと伝わるぬくもりが、リリアーナを勇気づけてくれた。
「一緒に、帰ってくれますか?」
「ああ、もちろん。帰ろう、俺たちの家へ」
俯くリリアーナを、ハリーが抱き寄せる。
ここは廊下で、誰が通るかもわからないのに。
リリアーナはハリーの背を抱きしめ返した。
胸を満たすあたたかな心地に、リリアーナは微睡むように目を細める。
(緊張もするけれど……一番安心できる場所はここ)
そっとまぶたを閉じれば、青薔薇のつぼみをつけた
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