第16話 騎士のキス
(それなのに、これはどういうことだ?)
今、ハリーの目の前では、三日ぶりに目を覚ましたリリアーナが、ベッドの上で深々と頭を下げている。
目を開け、ハリーを確認した瞬間、「あっ」と庇護欲をそそる
「リリアーナ、どうして頭を下げているんだ?」
椅子から立ち上がったハリーは、花の周りを飛び回る蜂のようにヨロヨロと、リリアーナのそばへ歩み寄った。
垂れ下がった長い髪が邪魔をして、彼女の表情は見えない。しかし手はしっかりとシーツを握り、小刻みに震えているのは見えた。
「どうしてって、そんなの決まっているじゃありませんか……!」
気持ちが昂っているのか、声が震えている。
勢いよく顔を上げたリリアーナの目には、涙が光っていた。
まさか泣いているとは思わず、ハリーはギクリと足を止める。
「え、な、泣いて……」
意味もなく手を彷徨わせるハリー。
慌て過ぎて、スマートにハンカチを取り出すこともできない。
もたついている間に今にもリリアーナの表情が曇り空から雨空に変わってしまいそうで、ますます焦りが募る。
「わたしのせいで、ハリー様が……ごめ、なさ……」
ひっく、とリリアーナがしゃくり上げる。
やっとの思いで取り出したハンカチを、ハリーはリリアーナのまなじりへ押し当てた。
問題はまったく解決していないが、とりあえずハンカチの件は片付いたのでホッと息を吐く。
「俺が、どうしたんだ?」
やさしく問いかけると、リリアーナは小さく息を呑んだ。
一瞬だけ引っ込んだ涙が、再びあふれてくる。
「わたしが女神様に助けを求めたばっかりに、ハリー様が、ハリー様が……申し訳ございません……」
リリアーナは、今にも過呼吸を起こしてしまいそうだった。
抱きしめて落ち着かせられたら、どんなにいいだろう。
ハリーの妄想の中のリリアーナは、泣き濡れた顔をグシグシと彼に押し当てた。
乱れた前髪を整えてやると、彼女はポケッとした顔でハリーを見上げ、それから安心したようにヘラリと淡く笑む。
(あー……絶対かわいいと思った)
そんな場合ではないのににやけそうになって、ハリーは自重するように頬の内側を噛んだ。
醜い顔にも臆することなく、それだけでも一目置く存在になったというのに、命を助けられてはもう、心を傾けずにはいられない。
今まで使ったこともなかった、持っている肩書と実家の権力を遠慮なく使おうと思うくらいには、ハリーはリリアーナに惹かれていた。
「リリアーナ、まずは落ち着いて深呼吸をしよう」
冷静そうに見えても、心の中は「リリアーナかわいい」でいっぱいだ。
そうとは知らないリリアーナは、ハリーの提案にコクリと頷き、素直に深呼吸を始めた。
何度か繰り返していると、少しずつ呼吸が落ち着いてくる。
涙もすっかり消えたところで、リリアーナは恥ずかしそうに「すみません」とつぶやいた。
「……なんというか、お見苦しいものを見せてしまいましたね」
「いや……」
見苦しいどころか、かわいらしくて困っていたぐらいだ。
あと少しで抱きしめてしまうところだったと、ハリーは自身の忍耐力に拍手を贈る。
「それよりも、何か言いたいことがあったのではないか?」
「ええ、そうです。わたし、ハリー様に謝らなくちゃいけなくて」
「謝る? 一体、何に対して?」
「何にって……まだ自分のお姿を見ていないのですか? ずいぶん、変わってしまったでしょう?」
「ああ……なるほど」
ハリーはようやく、リリアーナが何を思って謝ろうとしているのかを理解した。
リリアーナは、ハリーの身に起こっていたことを知らないのだ。
胡蝶一族の血を引くことは周知されているが、蛹化や羽化はハリーでさえも初耳だった。
そして、もしかしたら自分自身のこと──本当は
なにせ、夜に起こったことだ。降り注いだ花びらの真実の色を、彼女が知らなくても無理はない。
(これは、好都合なのでは?)
しばらく茨の城で過ごすと決めた。
少なくとも、リリアーナの自尊心が回復するまでは、王都へ帰るつもりはなかった。
ハリーがリリアーナに「本当は青薔薇の聖女なのだ」と伝えるのは簡単だ。
けれど、それでは何にもならない。
今のままの彼女が青薔薇の聖女として王都へ戻れば、身を滅ぼすのは目に見えている。そんなのは、ハリーには耐えられない。
だからハリーは、リリアーナはこのまま
(それに、彼女自身が自分の力と向き合うことは、きっと自信につながるはずだ)
もちろん前提として、ハリーがリリアーナと一緒にいたいだけというのもあるが。
それ以上に、青薔薇の聖女として堂々と振る舞うリリアーナを見てみたいと、ハリーは強く思った。
「リリアーナ。俺はあなたに、感謝しているんだ。祝福してくれて、ありがとう。あなたが祝福してくれたから、俺は今、ここでこうして生きていられるのだ。そうでなかったら、今頃は死んでいたかもしれない」
「え? どういう、ことですか? だって、黒薔薇の祝福は……」
「あなたが祝福してくれたから、俺は本来の姿を取り戻すことができたのだ」
呪いにかけられた王子が、姫に感謝するかのように。
ひざまずいたハリーは恭しくリリアーナの手を取り、手の甲へそっとキスをした。尊敬と、愛おしく思う敬愛の気持ちを込めて。
少しは、様になっているだろうか。
前よりはマシなはずだとリリアーナを見てみれば、
「まるで、おとぎ話の王子様みたいですね」
と彼女は困ったように笑った。
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