第14話 はじめての祝福

 ハリーの体調は、なかなか回復しなかった。

 医師の見立てでは数日で退院するはずだったのに、一週間経った今も入院している。


 症状は熱中症なのに、なにかがおかしい。

 医師からはとうとう、


「さすがにこれはおかしい。聖女様のお力を借りましょう」


 と言われた。

 万が一のことを想定して、リリアーナは考える。


(祝福を使うべきか、否か……)


 ぐぬぬ、と眉間に皺が寄る。

 考え過ぎて、皺が刻まれてしまいそうだった。


 黒薔薇ローズノワールの祝福は、相手を意のままに操る力。

 ハリーの体調も意のままにできるかもしれないという可能性が脳裏を過ぎったけれど、確信が持てない以上使いたくない。

 リリアーナは「他の聖女に相談してからでも遅くないのでは?」と逃げ腰になっていた。


(花の女神、ローゼリア様……どうか、どうかお力をお貸しください。ハリー様を……ハリー様を助ける力が、わたしはほしい)


 医師と看護師が去った病室で、ハリーの手を握りながら祈ることしかできない。

 黒薔薇の魔女と恐れられても、結局リリアーナ自身はなにもできやしないのだと、歯痒く、悲しい。


「……ハリー、さま……」


 慣れない看病生活に、疲れがたまってきていたのだろう。

 ついうとうとと、意識が揺らぐ。


 つかの間の夢の中でまで看病していた自分に半笑いしながら、リリアーナは眠気を落とすように首を横に振った。と、その時だった。

 なじみ深い甘い香りが鼻をくすぐって、リリアーナの眠たげな目がパチっと開く。


「この香りは……?」


 なにかに導かれるように振り返ると、カーテンが揺れていた。

 いつから開いていたのだろう。

 半分ほど開かれた窓から夜風が吹き込み、病室の真っ白なカーテンを揺らしている。パタパタとはためくカーテンの隙間からは、淡い光が漏れていた。


「月明かりにしては、明るすぎるような……」


 惹かれるように、リリアーナは立ち上がった。

 揺らめくカーテンをつかまえて、そっと開く。

 すると、どこからか迷い込んできたのか、花びらが一片、ヒラヒラとリリアーナの足元へ舞い落ちた。


「これは……」


 前屈みになって拾い上げたそれは、甘い香りを漂わせている。

 ベルベッドを思わせるしっとりとした触り心地は、間違いなく薔薇の花びらだった。


「どこから飛んできたのかな……」


 室内は暗く、花びらの色まではわからない。

 拾った花びらを指先でいじっていると、リリアーナは不意に何かに呼ばれたような気がして、外へ視線を向けた。


「えっ、ええええ⁉︎」


 リリアーナの視界に映ったのは、満月を背景に舞う大量の花びら。

 まるで雪が降っているかのように、空から花びらが降り注いでいる。


「どうなっているの……?」


 もっとよく見ようと、リリアーナは窓を開け放った。

 身を乗り出して、空を見上げる。


「きれい……」


 リリアーナは、こんなにも美しい景色を見たことがなかった。


 ひらり、ひらり。

 ふわり、ひらり。


 花びらは、淡く発光しているように見えた。

 その様はまるで、夜行蝶が飛び回っているよう。


 舞う花びらのうちの一枚が、見上げるリリアーナの唇へ落ちてくる。

 フッと息を吹きかけると、花びらは再び空へ舞い上がり……そして室内へと、入ってきた。


 ひらり、ひらり。

 花びらは、手を伸ばすリリアーナを挑発するみたいに、ゆっくりゆっくり落ち続ける。


「もしかして……女神様がわたしの願いを叶えようとしてくれている?」


 ハリー様を助けたい。

 そんなリリアーナの願いを叶えるため、女神が花の嵐きせきを起こしたのだろうか。


「もしそうなのだとしたら、どんなにいいか……」


 胸がざわつく。

 リリアーナは半信半疑で、けれどすがるように花びらを見つめながら、願った。


「……どうか、ハリー様を助けてください」


 膝をつき、手を組んで祈りを捧げる。

 すると花びらは、まるで「わかった」と言うようにクルンと宙返りをすると、今度は焦らすことなくスッと落ちていった。


 ハリーの額に花びらの影が落ちた瞬間、水面に花びらが落ちるかのように、波紋が広がる。

 くわんくわんと、どこからか鐘の音のような波紋音も聞こえてきた。


 浮世離れした幻想的な光景に、リリアーナは言葉もない。


 一重、二重、と波紋は広がり、次第にハリーの体を包み込んでいく。

 そして最後は、とぷんと。ハリーを覆った。


 不思議と、危機感は抱かなかった。

 水の中をたゆたうハリーの顔が、眠る赤ちゃんみたいに穏やかだったからかもしれない。


 どれくらい、魅入っていたのだろう。

 波紋音の余韻が完全に消えたところで、リリアーナのまぶたがだんだんと重たくなっていく。

 全ての力を使い切ったような、不思議な達成感が彼女を満たしていた。


 ぼんやりとした意識の中、彼女が最初に見たのは、ベッドの上で身を起こすの姿。


 冴え冴えとした月の夜に似合いの、艶のある黒髪。光加減で青にも緑にも黒にも見える不思議な目。やわらかな印象がありつつも、どこか浮世離れして見える顔立ち。


 月明かりに照らされたはかなげな姿は、クロアゲハを彷彿ほうふつとさせる。


 俯いた彼は、不思議そうに自分の手を眺めていた。

 手のひらを眺めて、ひっくり返して手の甲を見て。腕をさすりながら太さを確認して、肩と首へ手を滑らせていく。そして、最後は顔と頭へ。


 小さく引き締まった顔に、絶妙な配置でパーツが整頓されている。

 長いまつ毛、通った鼻筋、形の良い唇。どれもがあまりにできすぎていて、つくりものめいて見えた。


 すっきりと伸びた首の下は、無駄を省いたコンパクトな体躯──いわゆる細マッチョというやつだ──で、見慣れた野性味あふれる筋肉むきむきは、跡形もなく消え去っている。


 美男美女だという両親のいいところばかりを集めた稀代の美貌。

 夜の精霊だと自己紹介されても容易に信じてしまいそうな神秘的な美形が、そこにいた。


「リリアーナ、これはいったいどういうことだろうか……?」


 振り向いた青年が、不安げな表情でリリアーナに問いかけてくる。


 彼の質問に答えなくては。

 そう思ったのだけれど、リリアーナはそれ以上意識を保っていることができなかった。

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