第7話 カブトムシ

 

 モーガンが出ていった扉を、リンジーはうっとりと眺めた。

 引き締まった体躯に切長の瞳。

 長い手脚はスラリとしていて、足を組んだ時にちらりと見えた踝はとても扇情的だった。

 少し草臥れた服を着ていたのが、逆に彼の男らしい色気を増しているように思えた。


「素敵な人だったな……。きっとまた来てくれるよね?」


 頬を赤めほうっと息を吐く様は、まさしく恋する乙女のそれで。

 リンジーは鼻歌を歌いながら部屋の隅にあるワードローブを開き、中にある大量のドレスの中からお気に入りの一枚を取り出して、鏡の前で当ててみる。

 ドレスを当ててくるりと一周回れば、もう心はモーガンとのデート中だ。


 その姿に、親友を亡くした悲しみは、一切感じられなかった。






 リンジーは蒸気機関船で有名なビートル商会の三人姉弟の末っ子である。

 一番上の姉はダンプティ子爵家に嫁ぎ、3つ上の兄は商会の跡取りとして、目下修行中の身だ。

 商会はリンジーの祖父が興したもので、かつては細々と雑貨を扱う零細商会だった。

 しかし、今から20年程前。

 リンジーの父に代替わりしてから、商会は一変した。

 彼の時流を読むセンスと豪胆さは、この変革の時代の波に上手く乗り、一躍一流の商会へと変貌した。


 そんなビートル家の末娘であるリンジーは皆に溺愛され、自由奔放に育った。

 姉は有力貴族に嫁ぎ、商会は兄が継ぐ。

 リンジーには何も責務が与えられず、代わりに欲しい物は何でも与えられ、何でも叶えられた。


 リンジーはいつしか、ある錯覚をするようになった。

 自分は、誰からも愛され可愛がられるお姫様なのだと。



 そんな夢見がちな少女が、何故ジェニーレン家のメイドとして働くようになったかと言えば、それはリンジーの母の計らいによる。

 我が子可愛さでこれまで甘やかしてきてしまったが、リンジーももう成人間近という段になって、母として不安になったのだ。


 いつまでも夢見がちな少女のままでは、リンジーが嫁に出た後、婚家でうまくやっていけないかもしれない。

 婚家で疎まれるようなことになれば、リンジー自身が苦しい思いをする。

 そう考えたリンジーの母は、社会勉強の為、労働環境が良いと評判のジェニーレン家にリンジーを雇ってもらうことにしたのだ。

 元々、ジェニーレン家とビートル商会は仕事上の付き合いがある間柄だった。

 その為に、何の問題もなく酷くあっさりと、リンジーはジェニーレン家で働くこととなった。


 リンジーの母の行動は、間違いなく娘を思い遣る母の愛によるものだったのだが、一つだけ、誤算があった。


 ジェニーレン家の使用人という職は、その労働環境の良さから非常に人気が高い。

 爵位で全ての序列が決まるような社会構造ではなくなってきたという背景もあり、男爵家でありながら、そこで働く使用人たちは、厳しい競争を勝ち抜いてきた精鋭揃いなのだ。

 それ故に、クリフも15年以上かけて漸く、マリーとの婚約を契機に執事の職に就こうという段になったのだし、マリーなどそうした使用人たちの見本となるよう、貴族令嬢以上にマナーや作法をしっかりと習得し、全ての仕事を完璧にこなしてみせた。

 ジェニーレン家の使用人たちは皆、今の職に誇りを持っており、自らの実力の賜物でここにいるのだという自負がある。


 そんな中で、コネを使って実力もなく雇われたリンジーが、快く迎え入れられるべくもなかった。



 それでも、リンジー自身が誠心誠意仕事に取り組めば、受け取られ方も違っただろう。

 けれど、良くも悪くも天真爛漫で世間慣れしていないリンジーは、他の使用人たちから、有り体に言えば嫌われていた。


 元々仕事に慣れている訳でもなければ、手際がいい方でもなく、それでいて家同士の繋がりからぞんざいには扱えないという厄介な存在。

 そして言葉や行動の端々に見え隠れする周囲への優位意識が、他の使用人から疎ましく思われている原因の一端となっていた。


 厄介なのは、リンジー本人としてはきちんと仕事をこなしているつもりでいるし、実際必死にやっているつもりなことだ。

 他の使用人を見下しているつもりもなければ、むしろ皆に可愛がられているとさえ思っている。

 リンジー本人も意識しない深層心理にある「自分は他の者と違う上位の存在だ」という意識が、他者を不快にさせていることを全く理解していない。



 要は、「天然」という言葉で片付けるには些か不都合なほど、空気の読めない女性だった。




 リンジーがジェニーレン家にやって来て早3年。

 その間にリンジーは結婚適齢期を迎え、つい先日成人もした。

 それでも尚ジェニーレン家に留まっているのは、未だ嫁の貰い手が現れないからである。

 いや、正しくは「ビートル商会の末娘」に対する求婚は何度も訪れているが、結婚というものを夢見るリンジーのお眼鏡に適う相手は、未だ現れないのだった。



 リンジーが今も尚ジェニーレン家に留まっていることに、他の使用人たちは辟易としている。

 決して嫌がらせをしたり、害を加えたりという幼稚なことはしない。

 ただいつも遠巻きに、出来ることなら関わりたくないと接触をしないだけだ。

 事実、リンジーと同室になったメイドたちは、皆半年と保たずに辞めてしまう。

 全く悪気なく、故意でもなく繰り出される不快な言葉の数々に、精神的に参ってしまうのだろう。



 そんなリンジーと最も親しくしていたのは、間違いなくマリーだった。

 しかしそれは、上司として問題児を注視する監督者としてのそれに近かったのだろうけれど、リンジーはそんなことは欠片も思っていなかった。

 現にマリーはビートル商会から送られてくる他国の様々な雑貨に興味を持っており、そのことでリンジーと話をすることも多かった。


(私は使わないようなガラクタだけど、あのマリーならこういうものが好きなのかも知れないわ)


 リンジーは本当に悪気なく、むしろ好意を持ってそう思っていた。






 マリーたちがレイムス湖に行く前日。

 マリーが男爵に呼ばれている隙に、アデルの部屋にこっそりとクリフが入って行くのを偶然見かけた。

 リンジーはクリフの様子が気になり、アデルの隣の部屋にそっと忍び込んだ。

 そこは普段、アデルが予備のドレスルームとして使用しており、アデルの部屋にあるドレスルームでは足りなくなってから、いくつかのドレスを置いていた。

 その部屋の窓を開け放てば、隣はアデルの部屋のバルコニーだ。

 暖かく爽やかな気候柄、最近は窓を開けていることが多い。

 廊下の扉は厚く中の声は聞こえないが、ここならばアデルの部屋の中の声が聞き取れた。



『いつになったらマリーと別れてくれるの』

『もう少し待っててくれないかな……。僕が愛してるのは君だけだから』


 窓から聞こえてきた言葉に、リンジーは衝撃を受けた。


(まさか……あのミルヴァスさんが不倫……?)


 途端、リンジーは激しい怒りを感じた。


(ミルヴァスさんとの婚約が、マリーの唯一の誇りだったのに! なのに……こんなのあんまりだわ!)



 リンジーは心から憤慨していた。

 あのマリーがクリフを失っては、もう彼女には何も残らないではないか!

 それがマリー自身を低く見積もっている故の憤りとも知らずに、友の為にそう怒っていた。



 だから、リンジーは姉に連絡を取ったのだ。

 あまりに地味で見窄らしいマリーのために、少しでも見栄えが良くなるように。

 アデルお嬢様と並んでしまうとその粗が際立ってしまうから、少しでもそれを隠せるように。

 秋物のドレスだって構わない。

 それでも普段の冴えないマリーからすれば、とんでもない大変身だ。




 そのドレスが湖畔遊びに向かないことは、知っていた。

 令嬢たちが危険回避のために、ああいった濡れると重量が増すドレスは着ないようにしているということも、知っていた。



 それでも、マリーのため、マリーを少しでもマシにするために、あのドレスを無理矢理マリーに着せたのだ。

 マリーは別に自前のドレスで構わないと何度も断った。

 けれど、リンジーはマリーに譲らなかった。


『絶対にこのドレスでないとダメよ! マリーはこういう色が似合うし、いいじゃない! せっかくマリーの為にお姉様に無理を言って借りたのに、お姉様の顔に泥を塗るつもりなの!?』


 リンジーは駄々を捏ねる子供のように、そう言った。

 リンジーは、その言葉がどういう意味になるのか、全く理解していなかった。


 ダンプティ子爵家はビートル商会と同様、ジェニーレン家の重要な取引先だ。

 それなのに、マリーがドレスを断ることで関係が悪化することなど、許される訳はなかった。





 そう、リンジーはモーガンにいくつか嘘を吐いた。

 けれど、モーガンはそれに、はっきりとは気付けなかった。



 嘘を上手く吐く方法を知っているだろうか?


 本人がそれを嘘と思わないことだ。

 自分自身が嘘を信じることだ。

 得てして嘘をよく吐く人は、自分の吐いた嘘に自分自身も騙される。


 リンジーはまさしく、そういったの類の人間だった。



 マリーを憐れに思うのも、アデルたちに怒りを覚えるのも、リンジーの本当の感情だ。

 マリーを親友のように親しく思っていたというのも、嘘はない。

 ただ、リンジー自身が意識しない所では、マリーを大事には思っておらず、そして自分に都合の悪いことは自身の嘘で塗り変わっていく。





 仮にマリーがドレスの所為で溺れたとして、自分は何も悪くない。

 自分はマリーの為にやったのだし、まさかこんな事態になるとは思いも寄らなかったことだ。

 悪いのはアデルとクリフであって、自分のしたことは不可抗力だ。


 リンジーはそう考える。



 そして今、彼女の頭の中には、モーガンしかいない。

 リンジーは漸く、理想の男性を見つけたのだ。

 これはリンジーにとって一大事で、死んでしまったマリーのことは既に頭の片隅にやられている。




「カフェに誘ったら来てくれるかな? 刑事は給料が高いと言うし、どんな所に連れて行ってもらおうかしら」


 鼻歌を歌いながら、相変わらずリンジーはくるくる回っている。


 何のためにモーガンがこの屋敷に来ているのか、それすらも彼女は忘れている様だった。

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