第9話 信一の決意

「だからね、私と一緒に住んでくれる、信一?」


 真帆乃はもう何度目にもなる問いを繰り返した。あるときは冗談めかして、あるときは楽しそうに、あるときは真剣な表情で、真帆乃は信一に一緒に住んでほしいと言ってくれた。


 その問いに信一はずっと答えられていなかった。警察での人間関係とか、梨香子のこととか理由はいろいろとある。


 けれど、最大の問題は、そんなことではない。

 信一は中学生の頃も、高校生の頃も真帆乃に恋い焦がれていた。真帆乃のことが大好きだったのだ。


 そして、信一にとって、今でも真帆乃は特別な存在だった。

 それなのに、真帆乃と一緒に住めば、信一は真帆乃への思いを抑えられなくなるかもしれない。

 

 そのことが、信一は怖かった。


 けれど、もう真帆乃への気持ちを抑える必要なんてないのかもしれない。信一はそのことに気づいてしまった。


 真帆乃は信一に好意を持ってくれていて、一緒に住みたいと願ってくれて、この世でいちばん大事な幼馴染だと言ってくれた。

 そして、ファーストキスまで信一に捧げてくれた。


 信一は真帆乃への思いを我慢する必要なんてない。


 真帆乃の好意に応えれば、真帆乃の望み通りにすれば、二人が望む結末が待っている。

 それでも、信一は決断できなかった。


 真帆乃が信一から一歩後ろに離れ、そして、上目遣いに信一を見る。


「ダメ……かな?」


 真帆乃は瞳を揺らし、信一を見つめる。

 この部屋で二人きりでいれば、真帆乃と信一は幼馴染で、互いを大事に思う若い男女でしかない。


 けれど、部屋の外、世間に出れば、真帆乃は超絶エリート、信一は平刑事という差がある。

 警察での人間関係を気にしないとしても、信一は真帆乃に釣り合うのだろうか。


 真帆乃の思いに応える前に、それだけが気になった。

 

「俺は……真帆乃の隣にいていい人間なのかな」


「決まっているわ。私の幼馴染で、私が選んだ男の子だもの」


「ありがとう。でも……」


「信一が何を気にしているかは知らないけど、その……私もそんなに偉い人間ではないわ。たぶん出世ルートは外れちゃったし」


 真帆乃は寂しそうに笑う。やはり、現金輸送車事件で誘拐されたことが響いているらしい。

 真帆乃は今の地位を得るために、必死で努力してきたはずだ。高校時代も学年一位の成績で、東大法学部に入っている。


 その後も、キャリア官僚のなかでも人気の警察庁に入った。単に東大生というだけで就職できるような職種ではない。

 

 周囲からも期待されていたからこそ、捜査一課の管理官になったのだろうし、女性初の警察庁長官にだってなれたかもしれない。


 それなのに、理不尽な運命のせいで、真帆乃はそんな未来を奪われてしまった。

 信一は真帆乃の気持ちを心配して、深刻な表情をしすぎたようだった。そのせいか、真帆乃は慌てた様子で手を横に振った。


「そんなに気にしないで。役人は減点主義の評価で、そういうものだから仕方ないって割り切っているし……それにね、私にはいろいろな選択肢があるもの」


「たとえば?」


「そうね。私なら外資系コンサル会社とかに転職できるでしょうし、そうすれば給料は上がるわ。あとは実家のメーカーに入社して後継者を目指すとか、あと私、司法試験も受かっているから弁護士にもなれるし」


「えっ、そうなの!?」


 それは初耳だった。真帆乃が優秀な才女なのは知っていたし、勉強もすごくできるけれど、国家公務員試験だけでなく司法試験にまで受かっていたとは知らなかった。


 真帆乃はえへんと胸を張る。


「在学中に司法試験予備試験と司法試験も通っちゃった。勉強は得意だもの!」


「得意って次元を超えている気がするけどね……」


「どう? 私ってすごいでしょう?」


「めちゃくちゃすごいよ……」


「ありがと。他の人にこんな自慢したら嫌われちゃうけど、信一なら受け入れてくれるかなと思って……」


 真帆乃はちょっとはにかんだように、甘えるように信一を見つめた。

 ものすごく優秀で美人で家柄も良くて、真帆乃は非の打ち所がない。だからこそ、周囲からはやっかまれただろうし、自慢話と受け取られるような話をするのは控えていただろう。


 でも、信一の前では真帆乃は素のまま、自然体でいてくれる。ありのままの真帆乃を知ることのできる特権を持っている男は、信一だけなのだ。

 そのことが嬉しかった。

 

「だからね、そんなに心配しないで。あと、もう一つ、私にはなりたいものもあるし」


「真帆乃だったら、何にでもなれるよ。どんなすごい立場にもきっとなれる」


「ありがとう。信一が保証してくれるなら、きっとなれるわ。だって、私がなりたいのは……信一の奥さんだもの」


「えっ」


 信一が固まると、真帆乃はくすりと笑う。


「専業主婦も悪くないかもって思うの。信一を支えて、二人で生活するのも楽しそうだなって」


「真帆乃はいくらでも活躍する道があるし、専業主婦になるよりも働くのが望みなんじゃない?」 


 真帆乃は肩をすくめた。真帆乃が信一の妻になって、専業主婦になるなんてありえないと思う。


(もっと別のハイスペックな男性の妻ならともかく……)


 そう考えて、やっぱり真帆乃なら、他にいくらでもふさわしい相手がいるような気がしてくる。

 同じ警察キャリア官僚の男、政治家の子息、大成功した起業家の青年男性……。


 逆に、信一には地位も金も家柄も、何もない。

 

 そんなことを考える信一の胸を、真帆乃はそっと指で撫でる。そのくすぐったい感触に信一は驚くが、真帆乃は真剣な表情だった。


「私はたしかに自分の力を試してみたい。梨香子のことがあったから警察を選んだけど、警察でなくても私は自分の力を発揮できると思う」


「そうだね。真帆乃だったら、どこにでも最高の居場所を見つけられるよ」


「でも、私にとっての最高の居場所は信一の隣。私はいつでも、信一にそばにいてほしい。一緒に住んでほしい」


 そう訴える真帆乃の表情は切なそうで、その宝石のような黒い瞳が信一をすがるように見つめていた。

 そこまで言われて、信一は答えないわけにはいかなかった。

 いや、信一は真帆乃の気持ちに応えたいと心から思っていた。


 信一は真帆乃の背中に手を回し、そっと抱き寄せる。真帆乃が「えっ」と声を上げ、顔を赤くする。

 その身体はとても柔らかくて温かくて……信一は改めて真帆乃を自分のものにしたいと思った。


「し、信一……ちょ、ちょっと」


 真帆乃は信一に力強く抱きしめられて、動揺していた。

 今度は信一が攻める番だ。


「いつでもハグしていいって言ったのは、真帆乃だよ」


「そ、それは『私がハグしてほしいときはいつでも』って意味でしょ!?」


「真帆乃はハグしてほしくないの?」


「そ、それは……信一が抱きしめてくれるのは嬉しいけど……い、いきなりだったから心の準備が……」


 さっきは真帆乃が主導権を握って、真帆乃が信一に抱きついていたけれど、今度は逆だ。

 信一はさらに一歩踏み込む。


「真帆乃は俺を支えてくれるって言ったけど、俺が真帆乃を支えるべきだよね」


「え?」


「一緒に暮らそう、真帆乃」


 信一は静かに、真帆乃の耳元でささやいた。


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