ルプランスの朝日

平御塩

第1話「偶然な出会い」


街の喧騒けんそうから遠く離れた森の中に建つ一軒家。


森林に囲まれ、文明の営みを感じさせない澄んだ夜風だけが周囲を潤している。


家の中、二人の子どもたちはベッドの中で眠れず、その家の家主の妻こと、母親の下に集まった。


「お母さん、お母さん。眠れないなぁ」


「なんか目が冴えて眠れないの。どうしたら眠れるのかしら?」


幼い男の子と女の子はお互いに母親を挟んで甘えた。


「うふふ。それじゃ、二人にとても素敵なお話を聞かせてあげるわ」


母親は二人の子どもたちにせがまれ、優しく微笑む。


子どもたちの身長より高い位置にある本棚から取り出したのは、読み聞かせするには厚い一冊の本。絵本と呼ぶには、少し分厚い、日記のような本だった。


それを愛おしそうに。優しく手に取った母親は、子供たちの目の前に持ってきて、ベッドの上でゆっくりと開く。


「お母さん。この本って、どういう本なの?」


「お母さん。この本って、どんなお話なの?」


子どもたちは期待に目を輝かせながら、母親に尋ねた。


「うん、そうね。この本は……いえ。この物語は、とある狼さんととある国のお姫様の物語よ」


ふわりと、野に咲く花のような、柔らかい笑みを浮かべて、愛おしそうに本を開く。


「狼さんとお姫さまの、どんな物語?」


再び、女の子が母親に尋ねる。


同じような質問に母親はやれやれと言うように女の子の頭を撫で、本に目を移す。


「……とても懐かしくて、とても悲しくて。けれど、奇跡のような――――――そんな物語よ」


母親はそう言い、優しく本のページを開く。






むかし、むかし。でもそれほど昔でもないお話。


ルプランス王国。それは、大陸の西に位置する国で「薔薇と妖精の国」と呼ばれた、歴史と伝統ある国。


各地には王国の古い遺跡や洞窟など、まだ明らかにされていない場所があって、冒険者たちが集う国としても知られていた王国は豊かな国でした。


この国の王族は妖精と愛を交わし、その間に生まれた子たちの末裔であり、皆が生まれつき、特別な魔法を受け継いで生まれてきます。


「……はぁ」


王城の中にある、小さな庭園のテラスの椅子にて、物憂げにドレスに身を包んだ少女……、ルプランス王国王女、アンブラ・ロサ・ルプランスは空の月を見上げていました。


肩から下まで伸びた、絹糸のような美しい髪。憂いを孕んだ整った顔立ち。華奢な体を包むドレスには周囲に咲き誇る白い薔薇の刺繍が入った、見る者を魅了する美しいドレスだった。


そんな少女の周りには、白い結晶のような薔薇が咲き乱れ、見る人々を圧倒し、魅了するような、不思議な空間が広がっていました。


「ねぇ。アンブラさま、また庭園で魔法をバラまいているわ」


「本当に嫌ねぇ。いくら自分の魔法を制御できないとはいえ、未だにあんなことをしているのでは王族の沽券にも関わるでしょう。先祖返りしたからって、嫌味ったらしい」


「しっ。あまり声を出しては聞こえてしまいます。放っておいたら戻ってくるでしょう。私たちの手には負えませんし、後始末の時だけくればいいんです」


庭園で佇む少女を遠目で見るように、侍女たちはコソコソと陰口を言い合っていました。


「……ホント。バカみたい」


でもそんな陰口は離れた少女に聞こえてしまっていて、少女は小さく苛立ちをこぼします。


この白い花園は彼女の持つ王族としての力が制御できずに構築されてしまった「妖精郷」。本来であれば人ならざる妖精たちが住まう世界を映しだす、旧き神秘の力なのです。


しかしこの力は今の王族からは失われてしまった力。突然変異を起こした彼女にしか使えない異能とも言うべき力。


生まれつき有する呪いのような力を持っているせいで、身も蓋もない嫌味を言われ続け、半ば幽閉に近い状態で王城から自分の意思で出ることも許されず、周囲と疎外感と孤独を感じながら生きてきたのです。


「今日も、月は綺麗ね」


今日は満月。身分も生まれも関係なく、生きとし生ける者全てを照らし、色々な形に姿を変える月だけが、彼女にとってただ一つの癒しでした。


「……本当に。大嫌い」


人間なんて嫌いです。王族としての責務とか、義務も嫌いです。自分の力も嫌いです。


これまでの境遇のせいからか、気が付けば彼女には嫌いなものばかりが増えました。


望んで手に入れたわけでもない力のせいで、実の親にすら「化け物」と言われた彼女にとって、国に対する愛も、家族への想いも、何もありませんでした。


「こんな力なんて、初めからなければよかったのに……」


今彼女が望むことと言えば、せめて自分の力が無くなってしまえばいいのにといったもの。幼い頃から、何度も何度も思い続けてきた気持ち。でも、生きている限り、この力は無くならないだろうと諦めてもいました。


そう物思いにふけっていた時。


「誰?」


制御が上手くいかずに漏れていた、白い薔薇に何かが引っかかる音がして、彼女は振り向いた。


「あ……!」


「あ……」


王女の視線に気づいたそれは目を見開いて声が漏れ、その姿を見た王女は目の前の物珍しさに驚きの声が漏れました。


「あー……。その……。は、初めまして。一介の冒険者の狼です、ハイ」


どこか間の抜けたような男の声で、少女より遥かに大きい体の二足歩行の金色の狼男は少女に言いました。


「――――――」


目の前に突然現れた存在に、少女は目を奪われ、胸の高鳴りが止まりません。


――――――それは、彼女と彼の運命の出会いで。


呪われているはずの白い薔薇が、まるで二人の出会いを祝福するように庭園を彩っているように見えました。





時は数時間前の昼時にまで遡る。


「やあ、ご機嫌だねぇ、みんな! 今日も日々のクエストをこなしているかい?」


王都「ヴィルヌーブ」にある冒険者ギルドで、一人の男が扉を開いて陽気に声を上げた。


ザンバラ髪に切った金髪、184cmという平均的な身長、鍛えられた野性的な体躯。革鎧を身にまとった、典型的な冒険者の装いをした若者だった。


「よぉ、ルゥ! 今日も相変わらず老けているな!」


「うるせぇ、余計なお世話だ。オレはまだまだ若者だっつーの! あ、受付さん。これ、依頼のヤツね」


冒険者仲間に老け顔であることを茶化されながらも、ルゥと呼ばれた男は受付の女性に討伐した魔獣の体の一部である、一角獣の角を5本渡した。


「お疲れ様です、ルゥさん。こちら報酬の500ロゼです」


「ありがとう。やー、今日も何とか無事に依頼をこなせたよ。それと報告なんだけど……」


「……かしこまりました。ギルドマスターにもそのように連絡をしておきます。ありがとうございました」


「うん。こちらこそありがと。報酬はこれでいいよね? それじゃ」


依頼報酬のお金を受け取り、ルゥは冒険者ギルドを出て行った。


報酬を手に取って、その足で向かったのはいつも彼がご贔屓しているアイテムショップだ。そのお店は500年も続いた老舗で王国の冒険者たちから愛されているお店だった。


冒険者ギルドから歩いて僅か三分。黄色の花を飾った女性をモチーフにしたシンボルが特徴的な店は今日も冒険者たちで繁盛している。


「お、ルゥじゃないか。今日も儲かっているかい?」


店の中に入ると、そこには恰幅の良い、人当たりの良さが滲み出ているような中年男性だった。


「ボーモンさん! 今日もしっかりと儲けたよ。これでいつものヤツをくれよ」


「お安い御用さ。ほら、いつもののヤツだ。持っていけ」


店主のボーモンは一つの麻袋を取り出し、それをルゥに渡した。


その中身は彼にとっての嗜好品である、一本の香木だった。


嗅覚の鋭いルゥにとって、日々のストレス発散には持ってこいの香りを放つこの香木は王国の名産品だ。


「うん、うん。これ、これ! この香り、たまんないんだよなぁ」


麻袋を手に取り、それを味わうようにその芳醇な香りをかぐ。疲れる冒険者稼業の中での癒しであった。


「それで、お前さん。今日の依頼は近辺で暴れている一角獣の退治なんだって?」


「ああ。厄介なヤツだったが、不意打ちを仕掛けて見事に依頼達成さ」


「そうか。お前さんにとっては特に何ともない奴らだからな。楽勝と言えば楽勝か。……む。そう言えば、その一角獣の群れが現れていた地域は確か、農村があったような」


「――――――」


ボーモンは何かを思い出したように首をかしげると少しだけ、ルゥの表情が曇った。


「あー。そ、それはな。うん。アレだ。少し村が大変なことになったりしたけど、なんとかしたよ。ギルドにも連絡したし、今頃は王国軍のみんなが後始末をしているよ。うん」


アハハと、乾いた笑いを浮かべた。


「それって、何か変なことをしたんじゃないだろうなぁ?」


「していないさ。ちょっと裏技を使ったけど、何とかなったって! 大体、オレって色々とワケアリだろ? イイ男には秘密が多いものなんだからさ!」


「……そうかい」


ボーモンはそれ以上何も言わなかった。特にこれといって、何がとは言わないが、色々と察したからだ。


「おい、ルゥ! この前、お前に貸した金がまだ返ってきていねえぞ!」


「げ。わ、悪い! もうちょっとだけ待ってくれ! 今手持ちの金じゃ、全部は返しきれねえ!」


「そう言ってこの前の分も返していないだろ! さっさと返せ!」


「頼む! もうちょっとだけ待ってくれ! 次の依頼の報酬で返すから!」


お金を借りていた同僚の冒険者はルゥに詰め寄り、返済を催促する。


……この通り、彼はどこにでもいるような、ちょっと嘘つきで貸したお金をすぐに返さないダメなヒトだ。


王都の外からやってきた彼はこの街に馴染もうと冒険者として過ごし、周りに溶け込もうとした余所者の青年。


だが冒険者とは余所者で出来ているようなものだ。彼のような冒険者も珍しいわけじゃないし、何もおかしくないし、特に王国は冒険者の坩堝るつぼ。そんな訳アリがいてもおかしな話じゃない。


「……そういやぁな、ルゥ。ある噂があるんだが」


一連のやり取りを終えたルゥにボーモンが言葉を投げかける。


「噂? なんだ、それ?」


「ああ。王城の庭園が定期的に薔薇で埋め尽くされるという噂さ。どうも何年も前から王城で隠されている秘密らしいでよ。薔薇が咲いたら、王城は急に慌ただしくなって、咲いた花を伐採していくらしい。で、こいつがその花なんだが……」


「こ、これは……」


ボーモンがこっそりと出したものに、ルゥは自分の目を疑ってしまった。


それは確かに薔薇ではあるけど、彼の経験や読んできた図鑑のどこにも載っていない、白い結晶のような色合いをした、一本の薔薇だった。隠し持つ時に茎の部分が邪魔だったからなのか、丁寧に切り取られていた。


「噂とか物語とか、そういうのが好きなお前さんだ。きっと飛びつくだろうと思ってな」


「そりゃあ、飛びつくさ! こんな薔薇見たことないよ。まるで結晶がそのまま花の形になったような……。綺麗な花だ」


周囲に見られないように、コソコソとその花を観賞するルゥ。


「……それで、どうする?」


ボーモンはニヤリと悪い笑みを浮かべながらルゥに言った。


「どうするって、決まっているじゃないか。こんな綺麗な花の秘密を探りに行ってみたいとも。ちょうど、今日は満月だ」


「おいおい、いいのか? もしもお前さんが人狼だってバレちまったら、すげぇ面倒な事になるだろ?」


ルゥには秘密があった。


それは「人狼」という亜人の中でも特異な種族であり、その人狼の中でも完全な人型と狼男の姿と獣の姿と変身することが出来る高位の人狼なのだ。


訳あって王都にやってきて冒険者として生活していて、彼が人狼であることを知っているのは、王都に来てから世話になっているボーモンだけである。


「大丈夫、大丈夫。昔から逃げ足には自信があるのさ。こんなハラハラするようなロマン、他にないだろ? ちょうどあの女もここにいるわけだ。しつこい女狩人から逃げる良いきっかけにもなる」


「あー。あのいつも男をはべらせているヤツか。一応、アレでもこの国の英雄なんだがねぇ」


「イヤなものはイヤなのさ。好きでもないものに興味が湧くほど、オレは物好きじゃないんだ。よーし、準備してから行くかー!」


「あ、おい!」


ルゥは上機嫌になって、アイテムショップを出て行った。


「ったく。アイツ、ヘマをやらかさなければいいが……」


友人の心配をしつつも、ボーモンは商売を続けるのだった。






満月が空に浮かんだ頃、王城近くの森林の中でルゥは上半身裸でズボンだけ履いた格好になっていた。


月の光を受け、体がミシミシと音を立てて、彼の姿をニンゲンから狼男の姿に変えていく。筋肉が膨れ上がり、骨格が変形して、体格も大きくなり、美しい金髪はタテガミとなって金の体毛が全身を覆った。


「ふぅー。これで良し。後はヒミツをちょっと覗いて、あわよくばあの花をゲットして帰る。うん、完璧なプランだ」


人狼の姿を知らぬ者が見れば、その姿は大変恐ろしげなものであり、畏怖の念を向けるにも関わらず、彼の口から漏れるは気の抜けた軽薄そうな男の声。


満月が出ている時の獣化で絶好調な彼は自分の日帰り計画に問題はないと自信満々。


「(あーでも。目撃者がいたら暗示とかで記憶を消したりしないといけないよな。ボーモンが言っていた通り、この姿を見られるわけにもいかないし、覚えられるわけにもいかない)」


もしもの時を考えて、ルゥはふところから記憶を消す用の術式が込められた魔石を確認する。


この通り、ルゥ・リュコスは浪漫主義な男でありリアリストだ。


行動原理は「浪漫を求めること」であり、その過程で浪漫を感じるためであれば合理的に進める男だ。


始まりは無茶苦茶であるが、必ず目的を成し遂げる男。傍から見れば変人ではあるが、本人は至って真剣なのが取り柄。


「さて、潜入開始っと!」


そう言って軽快に森林の中を駆けて行き、王城へと人並外れた身体能力で潜入していったのだ。






……なのだが、それらの目論見はあっさりと崩れ去った。


王城に潜入したのまではまだよかったのだが、生来のドジっ子気質な性格のせいで、その「秘密」の要因である王女さまの漏れだした「妖精郷」に足を踏み込んでしまい、なんと人狼の姿で出くわすことになったとさ。


「えっと、とりあえずお茶にでもしましょうか」


「ちょっと待って。なんでそこでお茶のお誘いになるのかなぁ!」


目の前の狼男を見ても動じず、むしろ意気揚々とテーブルに誘う王女にルゥは混乱します。


「はぁ。お客人でしたら、何かもてなすというものかと思っていましたが」


「そうじゃなくてですね。まず、狼男が突然こうやって目の前にいるという状況に対して何も思わないのかなと思うのですけど。なんというか、ほら。ちょっとは怖がるとか……」


「……ふふふ。確かに、そうかもしれませんね」


ごもっともな正論をぶつけられるが、王女ことアンブラは穏やかに笑う。


「見た所、貴方は悪い人には見えませんし、面白そうだなと思うのですけど。少しお話をしてみませんか?」


「え、マジかよ。って、手を引っ張るなって!」


おしゃべり相手になってほしいと唐突に言われて更なる混乱がルゥを襲うが、アンブラは彼のけもくじゃらの手を掴んで引っ張り始めた。


結果、「どうかそのままで」と言われて、人狼の姿のままサイズ感が微妙に合わない椅子に座ることになった。何故か泣きたくなったが、このままでは色々な意味で絶体絶命なので大人しく従う。


「この薔薇と空気は……もしかしなくても『妖精郷』なのか?」


「……はい。そうです。よくご存じで」


「ああ。オレの故郷とかでは有名な話だよ。高位の妖精が使うことが出来る特別な異能の力さ。世界を書き換えて自分の領域にしてしまうというすごい力だって。いや、そもそも君は妖精なのか?」


「いいえ、違います。正確に言うと、私は王女です。この国の」


「――――――ああ、なんてすごい日だ」


天を仰ぐように、ルゥは頭を抱えた。


何となく察してはいたが、まさかこんな高い純度の「妖精郷」を作ってしまっているのが王女だとはこれっぽちも思わなかったルゥは脳天に矢を撃ち込まれたような衝撃を受ける。


そしてルゥは王城に不法侵入してきた不審者そのものだ。そうなれば命の危機以上に面倒事がデカくなって収拾がつかなくなって自分だけの問題じゃなくなる。


「ということは、貴方はアンブラ王女ってことか? ライト王子の妹君の」


「はい、そうです。それと、私の事は気軽にアンと呼んでください」


「……想像以上にフレンドリーすぎないか」


あまりの距離の近さにルゥは頭が痛くなり、そういうことかと理解する。


巷では、王女アンブラ・ロサ・ルプランスは「薔薇の姫」と言われているが、それは彼女が周囲に対してかなり厳しく、薔薇の茎の如く刺々しい性格の持ち主であると言われ、公務以外では姿を現さないことからそう言われていた。


そしてどういうわけか王城の外に顔を出したことがなく、アンブラ王女の姿や顔を見たことがない国民の方が多いとも言われていた。


顔を見せぬ無名の王族として市井に知られることのない、悪い意味での「薔薇の姫」。それが、ルゥもよく知る「アンブラ・ロサ・ルプランス」という王女だった。


「(で、恐らくこの制御できていない『妖精郷』が原因だろうなぁ。それも、十中八九先祖返りを起こしたことによるものだろうし)」


今もこうして白い結晶のような薔薇が咲き乱れる庭園を見て、ルゥは納得する。


妖精などと言った人外の存在が人間と交わって生まれた末裔は、稀に先祖返りを起こして高い純度でその異能を行使することが出来ると言われている。彼女はその例に漏れず、人間でありながら高位妖精としての力を持っていたのだ。


「……あの、貴方は私のこと、怖く、ないのですか?」


「え?」


恐る恐ると、どこか不安げにアンブラはルゥに言った。


……これまでの彼女の人生は、その能力故に疎まれ、恐れられ、真っ当な愛情を受けて育ったわけではなかった。


半ば幽閉に近い状態で、王城の外に出たことなんてほとんどなく、本だけが友達のような日々を送って来た彼女にとって、目の前の人狼も数多くある物語の中で聞いたことのある、空想の存在でしかなく、初めて人狼の姿のルゥを見た時は思わず高揚したほどだった。


しかし、こうして自分に会って、自分の秘密を見られた時は、もしかしたら今までのように怖がられるのではないかと不安だった。


出会って間もないヒトにこんなことを聞くのはおかしいとわかっていても、内心では不安でたまらなかった。声に出さないと不安だった。


……もしも、怖いと言われたら、それはそれでしょうがないと諦める。いつだってそうだったからと諦めるつもりだった。


そんな気持ちで返答を待つことわずか1秒。


「いや、全然」


「――――――え?」


返ってきた言葉に、アンブラは面食らった。


「だって、誰かを傷つけたりするようなものにも見えないし、なんだったら王都の外の魔獣の方が怖いまであるよ。それに、この花も綺麗だろ。怖い所なんて、何もないよ。こういうの、ロマンチックって言うんじゃないか?」


「――――――――――」


……言葉が出ない。


「(なんで。なんで、そんな)」


だってずるい。ずるすぎる。


そんな、本当に何も怖くないと言うように、無神経に、優しい声色で。


呪われているとずっと言われた、この世界が「綺麗」だなんて――――――。


「え、ちょ、な。なんで、泣いているんだ!? オレ、何かおかしなこと言ったか!?」


突如涙を流して顔を覆う少女に、彼は慌てふためいた。


「……ああ、私は……」


ずっと不安だった。苦しかった。


誰からも愛されず、怖がられ続けてきたこの力を呪い、恐れられ、疎まれてきた少女にとって、この「妖精郷」は目に入れる度に自分の境遇のきっかけとなった呪われた世界だった。


制御が出来ず、その方法も見つからない現状の中、自分に理解を示してくれる人なんてどこにもいなかった。自分に直接仕える騎士すら、そうだった。


自分の生も幸福も、何もかも諦めていた彼女にとって、目の前の狼男の何気ない言葉は福音であり、小さくも大きな救いだった。


「(私は――――――私は、ただそう言ってほしかっただけなのかもしれませんね……)」


“怖くない”


ただ、それだけ。ただ、それだけの言葉が欲しかったと。


彼女は初めて、自分は生きていて良かったのだと実感したのだった。






「ありがとう、ございます。もう大丈夫です」


「……変なヤツ」


ひとしきり涙を流した少女は落ち着いたのか、椅子に大人しく座っていた。その様子にルゥは変人を見るような目を向けていた。


「でも、本当に貴方が初めてです。私の『妖精郷』を見ても、怖がらずに綺麗なんて言った、おかしな人は……」


「これを見て綺麗と思わない人たちの破滅的な感性を疑うけど、まあ『妖精郷』は高位妖精の力そのもの。力そのものを振るうことが出来たら、確かに厄介は厄介かもしれないけど。まあ、君のその力しか見ていなかっただけだと思うけどね」


おかしな人という言葉をスルーして、ルゥはそう言った。


……不思議と、ルゥは目の前の少女を初対面なのに放っておけないような気がしていた。


王族としての立場やその事情はよく知らないけど、アンブラがそのように涙を流している姿を見て、粗方事情を察してしまっただけに、迂闊な事は言えないと感じた。


それほどに、先ほどの涙のルゥにも影響を与えていた。


「そろそろ帰らないといけないな。あまり……ずっとここにいるのは、マズイと思うし」


「そう、ですね。ごめんなさい。引き留めてしまって」


ルゥはあくまで王城に忍び込んでいる状態。この状況を他の連中に見られたら、それこそ大変なことになる。


忍び込んだ場所と同じ所に上り、周りを見て見られていないのを確認し、出て行こうとする。人狼としての身体能力なら、あっという間に外に出ることも可能だろう。


「あ、あの。……もしも、よろしければですが」


「? よろしければって、何が?」


出て行こうとした時、アンブラに声をかけられ、ルゥは振り向く。


「――――――また、会えますか。その時は、友人として」


曇りのない、夜空を溶かし込んだような黒曜石のような目で、穏やかにそう言った。


そのあまりにも純粋で真っすぐな目を見た彼に、選択肢は一つしかない。


「――――――もちろん。君の友人として、もう一度会いに来るよ」


そう言い残して、人狼は飛び出していった。


「あ……! ……ふふ、ありがとう」


あまりの早さにお礼の言葉を投げかけることは出来なかったが、静かに感謝の言葉をこぼす。


いつ会えるかはわからない。だけど、彼はきっと会いに来てくれると信じている。


無謀にも忍び込んできて、自分が欲しかった言葉を投げかけてくれた狼男。


……この時の彼女には、まだ自覚していないけれど。


「もう一度。もう一度会えたら、またお話を聞かせてください」


次にまた会えるのが待ち遠しい。何だったら、明日にでもまた会いたいと思えるほどに。


――――――彼女は初めて、恋をしたのだ。






これはとある物語の一幕。一人の狼男と一国の王女の恋を綴った童話。


偶然から始まった、奇跡のような恋のお話。


いつか語られるかもしれないこの物語のページは、まだめくられない。

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