現代死

蘭山琥珀

現代死

 「死」と聞いて何を思い浮かべるか。悲しいもの、怖いもの、訪れてほしくないものかもしれない。そもそも、実感がわかないのかもしれない。『「死」とは何か?』そんな問いかけに確固たる確信を持って答えられる人間が今いるのだろうか。

 最古と言われる人類の祖先は先史時代まで遡る–アウストラロピテクス。彼らは礫石器を使って狩りをしていた。想像できるだろうか。彼らは自らのその手で獲物を捕まえていた。これは後の猿人、原人、旧人、新人だってそうだ。彼らの歴史は数百万年、我々が銃なんてものを使って狩りを始めたのは−彼らに比べれば浅いものだ。

 彼らがいたのは自然の中だ。自らがその自然に入り込んで生活していた。そこは空白の世界だった。誰もがその空白に何にも邪魔されることなく物を描ける。何一つとして他と同じということはなかった。その空白のキャンバスには「命」の根源たるものがあった。作ったのではない、そこにあったのだ。彼らは自らを筆と化して、そこに落書きをしていた。獲物と対峙し、捉え、殺し、食らい、ときには殺されて食らわれ、その空白はいろんな落書きで埋め尽くされていった。気づけば、そこに「命」があった。

 なぜそこに「命」があったのか、現代人には到底理解の及ばないものだろう。我々が生まれる時、そこにキャンバスはある。それは彼らのそれと何ら変わらないものだ。だが、現代人が死ぬ時、死ぬ間際、そこに「命」はあるのだろうか。少なくとも彼らにあって、我々にはなかった。

 なぜ、我々は「命」を持たないまま死を迎えるのか、それは死ではあるが「死」ではない。古代の人類は常に生死の境目を彷徨っていた。好んで彷徨ったのではない、彷徨わざるを得なかった。それに比べ、現代人はのうのうと生きている、いや死にながら生きているのかもしれない。そこに生はあっても、「生」はない。死と「死」、生と「生」、その違いはなんなのか、どこから生まれるのか。

 人類は時代と共に進化してきた。今や町中にビルが立ち、そこらじゅうにコンビニやスーパーマーケットがあり、お金を払えば食い繋いでいける。なんとも便利な時代になったものだ。それが人類を退化させたのだ。我々は守られている。普通に生きていれば国家が守ってくれる。秩序が保たれる。はたしてそれでよかったのか。もはや現代人のキャンバスには決められたものしか書けなくなっているのかもしれない。

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