白衣の囚人
その日、ヒューゴは朝から囚人のカルテをチェックしていた。監獄の医者から間違いや見落としがないか確認してくれと泣きつかれて始まった日課だった。囚人を信用し過ぎではと、いまだに苦々しく思う。けれども、本心は嫌ではなかった。生きがいすら感じている。
おかしな話だけれども、獄中生活はこれまでの人生で得られなかった充足感を与えてくれている。
自分はやはり根っからの医者なのだと、つくづく思う。
ヒューゴ・ウィスティンは、狂王におもねって民を軽んじた地方領主に代々仕えていた医者の家に生まれた。狂王に代わって王となった明晰王がまずしたことは、堕落した権力者の徹底排除だった。当然、その中には彼の両親が仕えていた地方領主も含まれていた。食べる物も着る物も親の愛情も惜しみなく与えられていた日常が一変したあの日を、ヒューゴは一生涯忘れられないだろう。
それまで住んでいた家を荷馬車一台分しか残らなかった家財道具とともに追い出された。親戚を頼ったはいいものの、それまでまともにいい関係を築いていなかったせいで、期待したような援助は得られなかった。父は現実を受け入れられず酒に溺れた。母はろくに働かなくなった父に辛く当たり嘆くばかり。そんな両親のもとで育つのは哀れだと、さすがに親戚も同情してくれたおかげで医学校に入ることができた。両親と年の離れた可愛い妹と四人で、かつてのような幸せだった暮らしを取り戻すためには、偉い方々に優秀な医者だと認められなくてはならない。そう信じた彼のもとに妹の訃報が届いたのは、二年目のことだった。嘘だと信じられない信じたくないと胸が張り裂けそうになりながら帰った彼が目にしたのは、可愛い妹の変わり果てた姿。
そのときだった。没落のきっかけとなったコーネリアス王を恨むを募らせるようになったのは。
落ちぶれた両親はもちろんあてにできない。親戚も医学校の学費が彼にできる精一杯の援助だった。医者になる以外に、生きる道はなかった。
寝る間も惜しんで勉学に勤しんでいる間も、恨みは消えなかった。
明晰王の冷徹なまでに徹底的な改革に巻き込まれた罪のない若者は、ヒューゴだけではなかった。同じような境遇、思いを抱える同志を得た彼は、当然のことのように未婚の明晰王が庶出の息子を世継ぎにするなど到底許せなかった。非業の死を遂げた王太子は正統な血筋の男児を遺していたというのに。あの頃は、明晰王がやることなすことすべてに怒っていた。まったく関係ない事柄にも怒っていた。
ヒューゴは恨む相手を間違えた。
今思えば、あそこまで困窮した原因のほとんどが両親の自尊心の高さにあったではないか。上流階級のお抱え医師だったのだから、医者として食うに困ることにはならなかったはず。ただ、両親はどうしても一介の医者という立場を受け入れられなかった。由緒正しいお抱え医師の家系なんてくだらない自尊心などさっさと捨ててしまえばよかったのだ。
明晰王の庶子に王冠が渡るのが許せなかった彼は、同志のツテでマクシミリアンの侍医になった。当時、正統派と称した反体制派の旗頭だったはずのマクシミリアンが、乗り気でなかったことは察していた。マクシミリアンから直接「俺は王の器じゃない」と言われたこともあったけれども、謙遜だとばかり。まぎれもない本心だったとしても、未婚の王の子に劣るなど認められなかった。
けれどもマクシミリアンはその気がないどころか、自分をあぶり出すエサににして反体制派を一掃してしまった。
ヒューゴはマクシミリアンのことを何もわかっていなかった。
そのことに気づいたのは、裁きが下ったあとだった。
死罪でもおかしくないことをしでかしたのに、なぜこれほどの温情を与えられたのか。ヒューゴには皆目検討がつかない。
マクシミリアンの本心を理解した今、なぜあれほど明晰王を憎んでいたのか、自分でも不思議でならない。まるで邪な妖精にたぶらかされていたのではと思うほど、どうかしていた。
今なら恨む相手を間違えたとはっきりわかっているけれども、今さら両親を恨みたいとは思わない。彼らが今何をしているかヒューゴは知らないし、ひょっとしたらもう灰になっているかもしれない。
今は、監獄長に気に入られて医者の仕事を与えられているけれども、それがいつまでも続くかわからない。今日、突然監獄長が考えを変えて、この別棟を追い出されてもおかしくない。
先の待遇はわからないけれども、今は信頼してくれている人たちに応えたい。
九割方カルテに目を通した頃、背後の扉が開いた。
また、怪我人かなにかかだろうかと、カルテを片付け腰を上げ背もたれにかけていた白衣を羽織ったところで、おやと眉をひそめた。
「誰もいない?」
たしかに、扉が開く音と閉まる音がしたはずなのに。待遇の良い別棟とはいえ、独房であることに違いない。分厚い頑丈な扉が開く音を聞き間違えるはずがない。とはいえ、誰もいないのはまぎれもない事実だ。なにか間違えて開けてたとしても、ここの看守がひと言の詫びもなく閉めるだろうか。
(まぁ、僕に用がなければそれにこしたことはないか)
気のせいと片付けられないけれども、いつまでも考えてもしかたない。肩を落として白衣を脱ごうとしたしたときだった。
「え? ……むおっ」
目の前に珍妙な出で立ちの少女がいたと思ったら、背後から伸びてきた手に口を塞がれた。
「すまない、ヒューゴ」
背後から聞き覚えのある声に、抵抗する気が削がれた。まさかという信じられない思いは、続く
「俺だ。マクシミリアンだ。わかるよな。……えーっと、そう、大声をあげないと約束してくれないか」
こくこくと首を縦に振る間も、珍妙な少女は瞬きのしかたを知らないのかというくらい琥珀色の瞳で凝視している。正直、怖い。
前に珍妙なヤバい少女。後ろには、かつて仕えたリセール公。
どちらも、ドローア監獄にふさわしくない。
ますます混乱し立ちすくむヒューゴに、手を緩めたマクシミリアンは心の底から申し訳なさそうに言う。
「驚かせて、すまないな」
「い、いえ」
「…………」
「…………」
「……………………」
沈黙が非常に気まずい。
かつての主マクシミリアンは、くたびれた黒装束。まるで、芝居の悪人の出で立ち。いまいちしまらない伊達男らしからぬリセール公は、なんと切り出せばいいか考えあぐねているようだった。
どうして、こんなところにリセール公が。いや、王の従兄なら、囚人の面会禁止のドローア監獄に来ることも可能だろう。
(いやいや、やっぱりおかしいだろう)
これは夢だと都合よく現実逃避なんて器用なことはできないけれども、ひとまずヒューゴは先ほどまで座っていた椅子を引いた。
「あの、どうぞ」
立たせたままでは失礼だと座るよう勧めたのだけれども、マクシミリアンはざっと独房を見渡してこう言った。
「椅子は他にないのか?」
「ありませんが……」
それがなんだというのだ。ここは独房で、来客用の椅子なんてあるわけがない。偉い人を立たせているのは、非常に気まずい。若干、こちらのほうが背が高いからなおさらだ。眉間にシワをよせてないで、さっさと腰を下ろしてほしい。
「お前の椅子だろう?」
どうやら、自分だけ座りヒューゴを立たせたままにすることになるのを気にしているらしい。リセール公ともあろうお方が、罪人に気を遣うことないというのに。
(ああ、そういうお方だったな)
そういうお方だったから、是が非でも王になってほしかった。本人が望まなくてもと悪事に手を染めた結果、ヒューゴはここにいる。
「では、僕はそちらで」
そう言って、ヒューゴは机の近くにあるベッドの端に腰を下ろした。先に腰を下ろすのは失礼だろうが、そうでもしなければリセール公をずっとたたせたままさらに気まずい思いをする羽目になる。今でも信頼してくれているとは微塵も考えていないけれども、ある程度良い関係がを築いた者を相手を立たせて自分だけふんぞり返ることをよしとしないのが、マクシミリアンという男だ。
眉間のシワが消えたマクシミリアンは、ヒューゴがひとまず存在を無視していたチェチェに椅子を譲るつもりだった。
「おい、チェチェ……」
けれども、ずっとヒューゴを凝視していた彼女は、ヒューゴの隣に腰を下ろしたのだった。彼女の行動に面食らったのは、もちろんマクシミリアンだけではない。珍妙な少女の高めの体温を感じる距離に近づいてきた。ヒューゴは恐怖すら感じて下手に動けなくなってしまった。
「マクシミリアン様、彼女は……」
「チェチェ!!」
やっと見てくれたと目を輝かせた少女は初めて口を開いたと思ったら、すぐにはっとして恥ずかしそうに頬を赤らめた。
「あ、わたしハ、チェチェ、です。よろしく、お、お願いしマス」
「…………マクシミリアン様」
たどたどしい自己紹介に、本当にどうにかしてくれと目で訴えてくるヒューゴに、マクシミリアンは椅子の背もたれを叩いた。
「チェチェ、お前はこっちだ」
「ヤだ。チェチェ、ココがいいッ」
「ここがいいって……」
彼女の琥珀色の視線は、いまだヒューゴに固定されている。アウルム族の英雄的存在であるはずのマクシミリアンに対しても、ここまで凝視したりしなかった。これは、いったいどうしたものか。マクシミリアンは、チェチェの扱いを心得ている双子は今別行動だ。
しばしどうしたらいいか考えた結果、マクシミリアンは椅子で腰を休めることにした。
「ヒューゴ、気にしないでくれ」
「いや、そういうわけには……」
「気にしないでくれ」
いかないだろうと続ける声を遮って、マクシミリアンは苦笑した。
「チェチェのことは話せば長くなる。危害を加えるような子じゃないから、好きにさせてやってくれ。それはこの俺が保証する」
「マクシミリアン様が、そうおっしゃるなら」
ヒューゴは引き下がるしかない。
(気にはなるが、これ以上なにかしてくるわけじゃなさそうだし)
ヒューゴは、そう言い聞かせて自分を騙すように納得させた。
「しかし、よくチェチェが女の子だと気づいたな」
「幼児ならまだしも、このくらいの年頃なら見ればわかりますよ」
感心するマクシミリアンに、ヒューゴは言外にこれでも医者の端くれだと言う。
(雰囲気が変わったのは、髪型のせいだとばかり思ったが……)
そういうわけでもなさそうだ。
マクシミリアンの侍医だったヒューゴは、長い前髪と常にうつむきがちで根暗な白衣の男だった。それが今では、髪は短く刈り上げられて、背筋は伸びている。おかしな話だけれども、獄中の今のほうがいきいきしているではないか。いや、憑き物が落ちたというべきだろうか。
(恨まれてもしかたないと思っていたんだがな)
明晰王が実子と甥を競わせるような真似をするから、ジャックとマクシミリアンは初めから結託した。ないがしろにされた正統な王子を取り繕うだけで、不満を抱いた輩が近づいてきた。多くは、マクシミリアンが彼らの不満に耳を傾け解決する姿勢を示すだけでよかった。反体制派の最大勢力だった正統派も一枚岩というわけではなかったため、数年でかなりの勢力を削ぐことができた。もちろん、ヒューゴにもわかってほしかった。だから、自分は王の器ではないと言い聞かせていた。王の器ではないのは、マクシミリアンにとって事実でもあった。けれども、妹の死もあってか、ヒューゴの恨みは根深かった。結局、追い詰めるだけ追い詰めて凶行に走らせてしまっただけだったと、マクシミリアンはずっと責任を感じていた。改心させられると思い上がっていたのだと、嫌でも思い知った。改心させられないなら、リセール校の侍医という立場におくべきではなかったと。そうすれば、少なくとも間もなく王妃となるジャスミンに刃を向けることもできなかったのだから。
なんとか死罪ではなくドローア監獄送りにしたけれども、それも所詮自己満足だったのでは。マクシミリアンは、ヒューゴに後悔と自責の念をずっと抱いていた。
恨まれてもしかたないと思っていたのに、ヒューゴの顔から悪感情はまったくといっていいほど読み取れなかった。拍子抜けするくらいに。実際、肩の力がすっかり抜けていた。
「それで、これはどういう状況なのですか?」
「ああ、そうだった」
すっかりひと息ついてくつろごうとしていたマクシミリアンは、慌てて居住まいを正して咳払いをした。
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