誰のための隠蔽だったか
キャサリンは使用人たちを下がらせると、こめかみを揉んだ。
「あの者たちは、どうするのですか?」
「どうもしないわ」
意外だった。ウィリアムは、てっきり月虹城から追い出すと言い出すものと考えていたのだから。
目を丸くした息子を、キャサリンはじとりとにらんで繰り返す。
「どうもしないわ。これまで通り、彼女たちにはこの館で働いてもらいます。彼女たちが取り返しのつかない愚かなことをしたのは事実よ。でも、被害者であることもまた事実。傷ついた者を鞭打つようなまねをするほど、わたくしは無慈悲ではないのよ。同じ女として同情もするし、わたくしの館の娘に手を出した卑劣な男には腸が煮えくり返る思いよ」
扇をギリギリと握る手を緩めて、彼女はため息をついた。
「あの娘だけが襲われたほうがまだよかったわ」
「母上、それは……」
「そうでしょう。あの娘が昨日着ていた服、お前も知っているわよね。囮になって成敗するですって? まともな頭を持っていれば、男に敵うわけがないとわかるでしょうに。ああ、忌々しい娘。世間はなんと言うかしらね。囮なんてでたらめで、無理やり辱められたい願望があるはしたない女だといい笑い者になるでしょうね。ゆくゆくはこの国の王の妃になる娘が……ああ、まったく……まったく……」
母の言うことを否定できないのが、悔しくてたまらない。
先ほどの使用人たちがパトリシアを陥れたのではないかと、そんな疑念を抱いていた自分が恥ずかしくてたまらない。
悔しさに、恥ずかしさに、煽り立てられた無力感にどうかなってしまいそうだ。
「わたしにできることはありますか?」
どうにか絞り出せた声はしかし、途方に暮れた幼子のように頼りなかった。
「もちろんあるわ。まずは、その口を閉じていることです」
「隠蔽、するのですか?」
「もちろんよ! お前もわかっているでしょう、こうするしかないと」
「わかってます。ですが、兄は決して納得しないでしょう」
王太子の婚礼は次の四月。たとえ、暴動の後始末が長引いたとしても、一時的にクリストファーを呼び戻してまで行うことまで決まっている。
キャサリンが一番頭を悩ませていたのは、やはり長男のことだった。
「ええ、納得しないでしょうとも。わかりやすく罪を暴こうとするでしょう。世間の好奇の目に晒すということがどういうことなのか、わかったつもりで何一つ理解しないまま、大きな声で糾弾することでしょう。腹が立つくらい陛下の若い頃にそっくり……でも、あの子は陛下ほど賢くない。だから、いたずらにあの娘を傷つけることになると気がつかないまま、正しいことをせずにいられない。そうでしょう?」
「ええ、兄はそういう人です。ですが、兄に隠蔽など無意味ではありませんか」
まもなく夫婦となるのだから、隠したところでバレるに決まっている。そうとわかりきっているのに隠蔽などしたら、こじれるだけではないか。
どうしたらいいのか、ウィリアムの頭ではいい考えがまるで浮かばない。
「婚礼まであの子に隠せれば、ひとまずそれでいいのよ。言ったでしょう。陛下は誰よりもロレンス家の娘を王家に迎えることを望んでいるの。婚礼を無事に成功させなくてはならないのは、陛下のためよ。お前も知っているでしょう、近頃市井で陛下がなんと呼ばれているか」
「……ええ、知ってます」
もちろん『狂王』と呼ばれていることくらい知っていた。
父王に複雑な感情を抱いている彼は、陰鬱な気分でようやく理解した。
(使用人のためでも、パトリシアのためでもなかったのか)
誰よりも王家を憎悪し滅亡すら望んでいる男が王だということがすでに狂っているから、『狂王』もあながち間違ってはいないだろうと、よくも鼻で笑えたものだ。噂を耳にしたときの自分の鼻っ柱をへし折ってやりたい。
先王に無理やり手籠めにされた母を持つ情緒不安定な父王が、長子の嫁にと望んだ娘が同じような目にあったと知ったらどうなるか――考えたくもない。
ようやく四月の婚礼を絶対に成功させなければならないという共通認識に至ったところで、ウィリアムには別の懸念が頭をもたげた。
「婚礼を無事に成功させなくてはならないのはわかりまたけれども、その……あの、トリ……パトリシアのほうは、その、大丈夫なのですか?」
「大丈夫なものですか!!」
昨日だけでパトリシアは何度も自殺をしようとしたりと、泣きわめいたり、婚約破棄を訴えたりと、少しも目が離せない状態が続いたのだと、キャサリンは腹立たしげにまくし立てた。
「鎮静剤で眠らせているところよ。それでも、人の目が離せないわ。まったく、本当に手のかかる娘ね」
「母上、それでは……」
とうてい婚礼を執り行える状態ではないではないか。
「それでも、婚礼を成功させるしかないでしょう。自業自得とは言わないけど、あの娘の短慮が原因でもあるのよ。婚礼の重要性は、わたくしがきっちりわからせます」
どのようにわからせるのか、ウィリアムには想像したくなかった。けれども、母にも情があるのだ。気性が荒くても、理不尽なことは決してしないし、おそらく彼女もパトリシアがこれ以上傷つくのを見たくないのだろう。
これから先の気苦労を思ってか、キャサリンはまたこめかみをもみながら「その上で」と扇の先をウィリアムに向けた。
「お前にも協力してもらいます」
「わたしにできることがあるのですか?」
「ええ、お前にはあの娘の劇薬になってもらうわ。無理にとは言わないし、付き合いきれなくなったら、いつでも手を引いても構わない。お前に、負うべき責任は何一つないからね。ただ、口を閉じているだけでいいのよ」
口をつぐむ以外にできることがあるのならと身を乗り出したウィリアムは、『劇薬』と聞いて怯んだけれども、ほんの一瞬の気の迷いにすぎなかった。
「このウィリアム、不肖ながら誠心誠意力を尽くします」
関わることになったのは、本当に偶然だった。けれども、ウィリアムには口を閉じて見てみぬふりをするなど、到底できなかった。そんなことをすれば、自分を一生許せなくなる。そう思ったのだ。
そこで、ようやくフィリップはすっかり冷めてしまったお茶を水のように一気に飲み干した。
「それから、わたしはクリスが帰ってきたときにパトリシアが違和感なく振る舞えるようになるための練習台がわりとして毎日雛菊館に通い続けた」
クリストファーと一つ違いの弟だからそっくりとまではいかなくても、代役が務まる程度には似ていた。
初めは面会もままならない日が続いた。パトリシアが婚礼を成功させなくてはと覚悟を固めたところで、心はなかなか受け入れなかった。あの頃のパトリシアにとって男というだけでまさに『劇薬』だった。
キャサリンが強いた荒療治が上手くいく可能性は、どれほどのものだったのだろうか。取り返しのつかないほど、事態を悪化させる可能性だって充分あったはずだ。それでも、母はウィリアムに期待を寄せてくれたのだ。理不尽に泣き喚かろうが、直接的にも間接的にも自殺すると脅されようが、辛抱強く通い続けた。
成果として、パトリシアはウィリアムとの仲を噂されるほどまで短時間で散歩や会話を楽しむ姿を見せつけることができた。けれども、それはやはり表面的なもので、それがパトリシアの精一杯だった。
「わたしがどれほど役に立ったというんだ。フン。わたしなどいなくても、きっとトリシャは婚礼の義を無事に成功させてみせただろうに」
そう言ってうなだれるフィリップが感傷に浸るのを許さなかったのは、デボラだった。
「結局、卑劣な強姦魔を野放しにしたのですね」
他にも被害者がいたと知って、デボラの胸中は当然穏やかではない。愚かなのはどちらだとキャサリン妃を罵ってやりたかったし、使用人の女たちに歯がゆくてしかなないし、パトリシアに対しても――いや、理解はできる。キャサリン妃が狂王のことを考えてとった策だとしても、当時のパトリシアのためにできるのはその程度しかなかったのだと。
(だからって、犯人を野放しにしていいはずがないわ)
彼女の糾弾に、フィリップは深々とため息をついて首を横に振った。
「まさか。結果的に野放しになっただけだ。母もわたしも、公にはしなかったが、犯人を野放しにするつもりは毛頭なかった。もちろん、犯人を探したに決まっているだろう。それに、母は対策も講じた。若い女たちに限らず月虹城に出入りする者は立場身分を問わず、許可なく月虹城内で単独で行動することを禁じることで、これ以上の被害者を出さないようにした」
「……でも、結局、犯人は見つけられなかった」
「ああ、悔しいことにその通りだ。フン、夫人には言い訳にしか聞こえんだろうが、父に悟られないようにとなれば、大したことはできなかった」
言いたいことはまだまだあった。フィリップは、どんな罵倒も甘んじて受けるに違いない。
デボラは、不意に無力感に襲われた。彼女が考えつくような言葉は、もうすでに彼自身を責め続けたに決まっている。それも、彼女が生まれるよりも前からずっと。
彼女が口を閉じるのを待ってたのか、チャールズが納得いかないという顔で.尋ねる。
「けどよ、本当にクリス兄は気づかなかったのかよ。ま、気づかなかったから、殴り込んできたに決まってるが……クリス兄もそこまで馬鹿じゃないだろ」
なにより、クリストファーはパトリシアを愛していた。正義感が強い彼が愛する人の異変に気がつかなかったとは、チャールズにはどうしても思えなかった。
「フン、そうだな。クリスもまったく気づかなかったわけじゃない。一度、問い詰められたこともあったしな」
もっともな疑問に、なぜかフィリップは複雑な表情を浮かべた。
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